目次
公開日:2020年7月21日
更新日:2020年10月16日
またしても釣りのようなタイトルになってしまった。
こちらの記事では、理系院生が外資にばかり移る理由主についてまとめた。なぜ理系院生・博士PhDは外資金融・コンサル・ITへ就職するのか?
理由は主に待遇面と説明した。しかし一部には「研究自体は好きだし、実績的にも、競争にも耐えられるが、アカデミアの思考や人間関係・雰囲気に合わず分野外に出た」という方も中にはいるだろう。実際にそういう話も何件も知っているし、気持ちもわかる。個人的な経験からも日本はこの傾向がアメリカ・ドイツ・イギリスなどと比較しても強い。この記事では「何故こんなにも歪んでいるのか?」について考えていきたいと思う。
なお、あくまでも業界の仕組みや構造による傾向に注目しているだけで、個々の大学教員や研究者の中にも実力的にも人格的にも優れている方は多くいらっしゃる。同時に歪んでいるから悪いわけでもない。また検索の結果や個人の経験や周囲の話を主にベースにしている仮説にすぎないので、分野や機関によってもこの傾向は異なることが予想される。予めご理解いただきたい。
そもそも歪むとは?
片方から見ればもう一方が歪んでいるように、もう一方から見れば、逆もまたしかりである。まずはざっくりと歪みがある状態とない状態の基準を定義しておこう。
ここで想定している歪みは以下の2つである。
まずは経済的な歪みである。現代社会は資本主義社会である。ざっくりいえば、能力に対して最も資本が高くなるところに身を置くのが合理的になる。労働者で言えば、収入が最も高くなるところに行くのが最も合理的である。この合理性から外れれば外れるほど「歪んでいる」とする。
もうひとつは人間性しての歪みである。人間は社会的な動物であるので、非常に定性的でさらに性格を歪みで表現するのは困るのは常々承知ではあるが、簡単のため対人コミュニケーション能力が高い方が歪みが少ないとしよう。一言で言えばコミュ障であればあるほど「歪んでいる」ことになる。
アカデミアの待遇
知っての通り大学の待遇はそこまで良くない。むしろ能力や競争率と比較すると悪い。場合によっては博士課程の待遇は懲役未満になりがちで、その後のポスドクや特任教員も低待遇かつ任期付きで、不安定になりがちである。常勤になっても少なくとも高給ではない。
確かに大学教員の平均年収や非正規社員や最低時給で食いつないでいるという人たちと比べると高いのだが、多くの研究職を目指している人たちの多くは、ざっくりいうと、お受験偏差値の高い人たちである。彼らの同級生は外資・商社マン・医者など高給職についている確率も高い。それらと比べると競争が激しいのに安い、という意味である。
日本の若い研究者たちの“ブラックすぎる”職場環境 ~あるノーベル賞学者の憤り~
資本主義の観点では、アカデミアはだいぶ歪んでいることになる。
そしてどのような志向の人々が大学の博士課程や、特に正規の教員・職員になっているのだろうか?大きく二種類である。
- 大学学部を卒業し、修士を修了。学部や修士で大半が待遇がいい就職する中、博士課程に進学し修了。その後もポスドクや研究員などを経て常勤へ。
- 一度学部や修士で就職をするが、就職先を辞め、大学に戻ってきた人。
実務家教員や、論文博士・社会人博士など、いろいろあるが、いずれにせよ、あえてアカデミアに残っている人々は、一般企業よりも待遇は下がるが、それでもアカデミアを選択している人々が大半である。待遇差があればあるほど、研究へのコミットメントが強くなる。日本がより歪んでいるのはこの点が大きいのではないだろうか。
研究の特性
一部の分野の研究では、サヴァン症候群やアスペルガーといった、一般的に対人コミュニケーションに問題を抱えがちな傾向を持つ方々が天才的な成果を上げるような特性を持つ傾向がある。よって研究成果が上がる人が、そういう特性を持つ人が多くなる。誰よりも実績が上がる人の中に、こういう対人コミュニケーションが問題がある人の率が高くなりがちという状況になる。
よって人間性的にもだいぶ歪んでいる人材が活躍しやすい状態にある。もちろん性格が悪い程研究成果が上がるという意味ではない。
上記のようにアカデミアは経済面でも人間性でも歪んだ状態になりがちな傾向にあるといえる。そして競争が激しいので、この傾向がより強化されていく。以下のように。
アカデミアの教員は、学生時代から大学の業界から出ていない人や、一度企業に就職し、待遇が悪いのにもかかわらず、やっぱりどうしてもアカデミックな研究がいいと大学に戻ってきた人たちで大半が構成されている。そして競争も激しいために、レースに勝たないといけない。このため必然的に多くのが「アカデミアが最高」・「研究職が至高」・「待遇よりもアカデミアの研究」と考えている傾向もあり、場合によっては全人類がそう考えているのではないか?と考えていると思われる方もいる。
大学の研究室では、研究室の卒業生の進路先が、他の大学の研究室であったり、教員になると就職先や研究室名が明記されるが、それ以外になると進路先の組織名を載せない、という傾向がある。講演などでも、教員や研究職になった場合のみ進路先が書かれるなど。もちろんこれは習慣的や文化的なものでもあるし、師弟関係のトラッキング等の理由もあると思うが、アカデミアに多かれ少なかれ存在している「教授になるのが正義」・「アカデミアで常勤になるのが至高」・「研究者が最高の職業」という雰囲気と、偶然なのか必然なのか一致している。
人材の評価方法
一般的な企業の業務では、通常他人と関わりながら働いていくことになる。このため明らかに人間性や人格に問題があると、採用が敬遠されたり、クビを打診されたり、出世しづらくなったりする。一方で、アカデミアの場合は、主に研究実績で評価され、この比重が高い。人格に問題があっても採用・昇進する可能性も一般企業よりも高くなる。
権力が集中する
研究室では、教員に権力が集中する。研究室に所属する学生は、教員に学生は従わざるを得ない状況にある。
大学の入学や配属の制度上、学生が他の大学に過程の途中から移ることは難しい、むしろ不可能。例えば博士課程2年の6月までA大学のα研究室で、7月からはB大学のβ研究室という移籍は出来ない。共同研究などはあり得るが在籍は変わらない。そして、基本的に各研究室でやっていることは独立であるため、ひとつの大学の同じ学科などの、内規だけで配属を変えることが出来る所属内に、途中から引き継いで指導が出来るほど専門が近い人が、何人も在籍している可能性は限りなく低い。
いわば学生は学位や卒業が人質に取られている状況である。よって学生は、特に教員とのトラブルに巻き込まれると、学位取得まで修行だと思って耐え忍ぶか、途中でも辞めるしかなくなる。辞めたら中退で学位はもらえない。他の大学や、研究室に移ってもいいが、入学をし直さなければならないなど、要は途中までは無駄になって再度やり直しである。途中で変えてもなお、標準年限で卒業できる可能性は相当に下がる。
就職をしても、常勤という正社員のポジションではなく、非常勤という派遣・アルバイトの立場が長くなる。教員のつながりなどが重要になる。最近は徐々に傾向が変わってきている様子ではあるものの、未だに博士・ポスドクの転職は新卒採用程には制度化されていない。これにより分野によっては研究を辞めたら、今までやってきたことはほぼ役に立たない非正規のアルバイトしかなくなる可能性も高い。気付いたら背水の陣状態になっている。この状況ではもう研究を続けるしかない。席数も決まっている。となると、どんなパワハラだろうが、アカハラだろうが耐えるしかなくなる。
アブラハム・リンカーンが「本当に人を試したければ、権力を与えよ」と言うように、権力は人を変える。程度の差こそあれ、人間はよっぽど聖人レベルの人格者でないと、権力を握ると行動までもが変化してしまう。そして今までに説明してきたような理由で、元々一般企業などと比較しても、元々人格者が残りにくい構造になっている。
極端な例かもしれないが、こういう例もある。
ここまでくると、今まで自分がいかに悪い環境にいたかということも考えてしまいます。私は某大学院の化学系研究室の博士課程に在籍していて、一年留年後に退学した人間ですが、やっぱり大学院の研究室というのは、組織のありかたとして大きく歪んでいるような気がします。表向きはクリーンなイメージを取り繕っていますが、内部から見ると、とにかく上の人間が威張りくさっていて、自分達はものすごく偉い教授(や準教授)だから、橋にも棒にもかからないような無価値な学生に対して何をしても許されるんだという風潮が、相当強いです。学生は朝10時から、夜中2時3時、いそがしいときは徹夜で研究をやっているわけですが、「これは労働ではなく、研究を通じた教育である」という名目で何でも通ってしまいます。きつい局面を乗り越えてこそ一人前になれるわけですし、甘いことばっかり言ってては研究者として一流になれないのは当然ですが、とにかく上の人間の無意味なエゴの押し付けは、度を越えたものがあります。
大学教授が学生らをまるで奴隷か囚人のように自分の研究室に囲い込むのは許される行為ではありません。このツイートおよび他の一連のツイートによれば、この教授は、研究室の学生が他所へ行かないように脅しをかけ、妨害し、他大学大学院へ進学を希望した学生に対しては指導放棄し露骨な苛めにより報復し、学生の人権を蹂躙しています。また、上級生は教授の方針を下級生に対して徹底させる責任があるとして、ラボ全体を巻きこんで誰も逆らえないような体制を作り上げようとしています。
この教授がメールの中で述べているところによれば、彼の考え方は同じ大学の周りの先生方の賛同を得ているようで、決して特別なことではないといいます。この告発に対するインターネット上の反応を見ても、こういう大学の先生は結構多いという声があり、アカデミアにおける構造的な問題です。
大学にはハラスメント防止委員会などもあるが、仕組みでも経験上でも、これは教員には強力な圧力はかからない。特に成果を出していたり、資金を集めていたりすれば、組織にとってもプラスになるので積極的に刑事告訴したり、懲戒解雇にするような圧力がかかりにくくなる。どうするかといえば、学生を切り捨て、極力もみ消しに走るだろう。人格破綻者が強権で好き放題して、それを止める方法が無いとなると、どうなるかは想像に難くない。
日本の雇用文化・制度との相性
上記とも関連するが、一般企業の仕組みとの相性を考える。もしかしたら、これが主要因の可能性すらある。
知っての通り、日本社会は日本の新卒一括採用・終身雇用の傾向で、より早くから同じことを長くやるほうが良いとされている社会である。年齢も重要である。そして前例が大好き主義。今までに取ってみた博士の学生がアレだと、もう積極的にはとらなくなるのは想像に難くない。サンプル数n=1でも100%の前例である。前例がないと、そもそも手が出せなかったりもする。また企業からしてみても、日本の博士課程以上の人材は、アカデミアの方が待遇が絶望的に悪いのに「それでも研究がいい」と大学に残ったか、企業を辞めてでもアカデミックな研究を志した達が多いことは、認識している。論文実績重視のアカデミアへは、企業側からはよっぽどのことがない限り移ることはできない一方で、アカデミア側も上記のような理由で、一部の領域以外では一般企業に移ることが難しい。このため、お互いの情報も、お互いに入っていきづらい。
こうなると企業は企業を、アカデミアはアカデミアを、互いに自己正当化するしかなくなる。なんだか部族同士のいがみ合いのようである。
しかしアカデミアは上記のように、常勤になるまでは待遇も悪く不安定で、その後のキャリアを教員に大きく握られている。外部に行くにも、一般企業は上記のような仕組みの上に成り立っているために移ることが出来ない。あるとしても実質誰でもいい系の荷物を運ぶ仕事や、Uber Eats等のアルバイト等しかなくなり、これらを積極的にやりたいとはおそらく思わないだろう。
よってアカデミアは言ってみれば、負けたら処刑されるサドンデスの椅子取りゲームのようになる。限界状態のサバイバルゲームでは、周りのライバルを蹴落としてでも自分が生き残ろうという思考になるのは不思議ではない。なりふりなんてかまっている余裕はない。圧倒的な実力者でない限り、正々堂々と、手段を選んでバランスを取っていたりしていては自分が処刑されてしまう。そんなこんなで業界に残っていく人たちは、より偏った傾向が強化されていく。
詳しくは他の本などを参考ください。
大学生の視点
大学の学部を卒業したのちに一度働いたのちに大学院に入学した人々はこれには当てはまらないが、これは全体からして少数派である。大多数は大学学部から修士・博士と進学する。進学の際に大学生が知っている、多く接している大人は、特に研究室以降は大学教員が必然的に多くなる。大学教員は上記のように一般企業に就職出来ても就職しなかった人々が大半であり、上記の競争に勝ち残った人々である。どんなに気を付けても自己正当化は入っている。特に理系の共同研究では業者が教員に頭を下げに来ている様子も見かけるだろう。そんな方々が大学生に「研究が最高」・「企業就職なんてくだらない」とか日々言及していれば多少の洗脳状態になっているといっても過言ではない。
シャカイジン・ケイケンとの類似性
一部の研究領域は、シャカイジンケイケンと、日本のアカデミアに似た傾向を感じる。
日本社会ではシャカイジン・ケイケンが重視される。そこでは「シンソツ3年」が重視されるわけではあるが、様々な言動や制度から推察するに、このシャカイジン・ケイケンが差すものは、以下のような感じになる。
「この優秀な私だって、最初の2-3年はくだらない仕事をさせられたんだぞ!お前がそれ免除されてたまるか!お前だって同じ苦しみを味わえ!」
という意識が垣間見える。カタカナな理由や詳細はこちらの記事にまとめてある。社会人経験(シャカイジンケイケン)とは何か?定義・多角的な比較と考察
同様の傾向が日本のアカデミア業界にも当てはまるのではないか。日本の大学院は制度的に特に金銭的には恵まれない。改善されつつも多くは、無給・薄給で耐えながら実績を積む。そして現代の大学教員も若い時、学生の時はそのような扱いを耐え忍んできた。幾多のものを犠牲にして、サドンデスの椅子取りゲームも死ぬ気で勝ち抜いて、やっとのことで常勤になれた。この耐え忍ぶのがアカデミアを目指す人の心意気だ。無意識的にもこの時の経験と犠牲をどうにか肯定して、自分を保ちたい。
「ケンキュウシャは、俗世やお金のことなど気にしてはいけない!大学院では学ばせていただく立場だと、立場をわきまえて学費を払って身を粉にして奴隷のように働くんだ!その後も実績を低待遇で死ぬ気で積め!俺だって何年もこういう奴隷仕事をやらされたから、今の自分があるんだ!お前もそれをやれ!」
言ってみれば低待遇の大学院や、非常勤の若手研究者時代の経験がシャカイジン・ケイケン化しているといっても過言ではない。ケンキュウシャ・ケイケンとでも名付けたい。
「(先輩から)やられたら、(後輩に)やり返す。倍返しだ。それが業界の流儀なんでね。」
・・・軍隊や部活の後輩への可愛がりという名のいじめと同じ構造である。
勿論全員ではないものの、こういう傾向はないだろうか?少なくとも私は見聞きして感じたところである。なお知る限りではシャカイジン・ケイケンよりも、ケンキュウシャ・ケイケンの方が大変そうな気はする。
裏切り者?
一部では他の大学に移ったり、外銀・外コン・外資IT辺りに就職することを「裏切り者」と罵る傾向がある。私も日本の大学で、外資系投資銀行でインターンをするといったら「そういうところは受けてはいけない」や「そんなのは就職じゃない」といわれた経験がある。
しかし、なぜ「裏切り者」というような発言が出てくるのだろうか?より良い機会と環境を求めて単に大学を移ったり、学生が大学を卒業して就職しているだけである。個人的にも裏切っている気は毛頭ない。こういった発言をする教員は基本的にパッとしない印象である。
これはおそらく上記のケンキュウシャ・ケイケンの正当化と、待遇の差によるものかと思われる。
分からない時は対称実験をするとわかりやすい。
例えば、日本の大学の状態が今のように博士課程が現状の半ば懲役よりも悪いような状態ではなく、逆に大学院生の学振やRAの年収が2000万円、ポスドクが3000万円、博士号の後に常勤の教員に採用されれば、最低5000万円で研究費も毎年数億円単位で使いたい放題の状態であるとする。この状態で大学院を修了したのちに、博士新卒として研究とは直接関係がない年収1000万円の外資系企業に就職することを仮定する。この場合果たして「裏切り者」と罵られるのだろうか?おそらく罵られないだろう。むしろ「え?なんでそんなところいくの?もうちょっと続けないの?まあ自分の人生だから好きなところに行けばいいけど・・・?」と好待遇の組織から転職する時と似たようなスタンスになることが予想される。言ってみれば東京中央銀行本社総合職の出世コースを辞めて、孫会社の取引先の町工場の工場長ではなくライン従業員になるような状態を想像してほしい。
研究室の環境も同様で、日本の多くの研究費ほぼなく、学生も微妙な研究室ではなく、逆に資金が潤沢で、世界的に有力な研究室で、世界中から「ぜひ参加させていただきたい」と対応しきれないくらいひっきりなしに連絡が来るような研究室から、他のまともな学生すらおらず、環境も廃墟みたいで微妙、研究費なんてほぼゼロの研究室に移るといえば「え?なんで?まあ好きにしたらいいけど・・・?」となりそうである。こちらも世界の名だたる研究機関から、名前も知られていない地方の、クーラーもなく文房具も従業員の自腹で買ってほしいといわれるようなプレハブの商店に移籍する状態を想像してほしい。
要はこういうことか。
「自分は、今まで研究のためにそれほど良くない待遇、それほど良くない条件、モテない環境で耐えてきた。上司や先輩からもそれがこの業界では当然と、こき使われてきた。それでも全ては研究のため、日本のため、そう思って今までやってきたという自負で自分の人生を正当化してきた。そして後輩や学生は、研究のため、日本のために共に耐える同士になると勝手に思い込んでいた。しかし彼らは私が全てを捧げてきた研究へのこだわりを捨てて、簡単に辞めて環境や待遇がいい方に逃げて行ってしまう。お前も研究のために全てを犠牲にする同士だと思っていたのに。しかも大学からの推薦で決まるような仲間内と認識している日系企業でもなく、よりにもよって外資だと?そんな奴らは裏切り者だ!」
田舎では都市部に行く人を裏切り者扱いする傾向がある。大学の研究室でも同じようなことが起こっているように見受けられる。少し比べてみよう。
都会に居て当たり前の人は信じられないかも知れないが、田舎の人はそこで育って都会に行く人を、田舎に育てて貰ったのにそれを捨てて都会に行く裏切り者と呼ぶ者が多数居ます。
なのでその人が帰ってきてコロナを持ち込んだとなると、想像するだに恐ろしい(´Д` )— あつろ〜 (@aturob) April 19, 2020
就職して当たり前の人は信じられないかもしれないが、一部の研究室ではそこで育って就職していく人を、研究室に育ててもらったのに、それを捨てて就職していく裏切り者と呼ぶものが多数います。
今でも一部の田舎では「都会に行く=地元を裏切る」という思考があり、帰ってきても「裏切り者」呼ばわりされてハブられる
当然他所からの婿養子は地元カースト最下層(カーストは出身中学で決まる)で使いっぱ
女性の場合はさらに酷い
とても暖かい、心休まる日本の田舎の風景— 緑のハイオクたん (@ryokucha_wo) June 4, 2016
今でも一部の研究室では「就職する=アカデミアを裏切る」という思考があり、帰ってきても「裏切り者」呼ばわりされてハブられる
当然他所からの進学者は研究室カースト最下層(カーストは出身大学学部で決まる)で使いっぱ
女性の場合はさらにひどい
とても暖かい、心休まる日本の研究室の風景
田舎で一番悲しいのは、都会との文化資本の差である。
趣味、教育、挑戦を受け入れる土壌がまったくないことが多々ある。女は普通科(高校)に行くな、ムラを出るヤツや出たヤツは裏切り者だ、長老は偉い、寺は正しい、勉強は役に立たないという思想など、腐臭がするしきたりに目眩がするのである。
— ピピピーッ (@O59K2dPQH59QEJx) April 5, 2017
アカデミアで一番悲しいのは、外資企業とのスタンスや待遇の差である。
分野外の活動や視点、成果を受け入れる土壌が全くないことが多々ある。研究以外はするな、アカデミアを出るヤツや出たヤツは裏切り者だ、長老大御所教授は偉い、大学は正しい、研究職が至高という思想など、腐臭がするしきたりに目眩がするのである。
何とも芥川龍之介の蜘蛛の糸のようだ、と思ったらこんな記事が。蜘蛛の糸―無職博士編
終わりに
上記のように「なぜアカデミアや大学院が歪んでいるのか?」という問いの答えは、研究の特性や構造と仕組み上、歪む方向に力がかかるようになっていて、これを防ぐ方法が無いから、ということになる。
個人的な経験では、日本の一部の研究室は空気が淀んでいる。他国の研究室も訪れたり実際に働いていたが、私が出向いたアメリカ・ドイツ・イギリスの大学ではそのようなことはなかった。日本だとかではなく、社会における研究や大学の待遇や社会的地位等の影響が高い印象があるが、要は日本の空気が淀んでいるような研究室は、ヒト・モノ・カネすべてが出ていく側に対し、少なくとも世界中から人が集まるような大学や研究室は入ってくる側に位置する、というのは大きいのかもしれない。
なぜ一部の大学院・研究室・ゼミは哀愁が漂い活気が無く空気が淀んでいるのか?
最近ではこの状況を解消するために、様々な政策や提言をトライしているように見える。しかしながら文化的なものも含むために、変化は非常にゆっくりで、状況は数年・10年単位で当分変わらないと思われる。
本当に研究がしたい場合には、アカデミアの仕組みと構造上、上記の傾向があることを念頭に置いておいていただければ幸いである。