公開日:2019年7月3日
更新日:2020年8月15日
ケンブリッジ大学に入学し、在籍し、卒業し、再度訪問したことで、いろいろ見えてきたものがある。数記事に分けてまとめていきたい。
私は、幼稚園においてモンテッソーリ教育を受けた。我が道を行くようになるというあの教育法である。
モンテッソーリ教育の本人の体験談 2018年3月号文藝春秋にインタビュー掲載。
何事にも凝り性であった私は、勉強以外にも学校行事も真剣に取り組んでいたように思う。むしろ勉強はそんなにしていた記憶がないし、現にやっていなかったのだろう。誰かに認められたくて取り組んだ、というよりも、面白がってやっていたら勝手に成果が出ていた。最初は全然だめでも「面白い!」と思って真剣に取り組めば、大体のことはすぐに学校内くらいではトップレベルになっていた。覚えているだけでも以下のような状況であった。
- 夏休みの宿題が優秀賞。
- 文化祭では、演劇で主演。
- 音楽祭では、指揮やピアノ伴奏を担当し、歌のお手本もやった。
- 毛筆書道では、作品が県か全国か何かの展示会へ学校代表で送られた。
- 運動会では対抗リレーの選手。
- ソフトボール大会ではピッチャーで4番。
- 部活のバスケ部では、スタメンでシューター。
- 学力試験は、時たま学年1位。
- (ちなみに絵は下手である)
こうなると、どうなるか?ドラマの花より男子のF4や、のだめカンタービレの千秋先輩のように「キャー!ステキ!」となるのだろうか?残念ながら、そんなことはなかった。
公立小学校・中学校だったからかもしれないが、まず同級生にいじめられる。体育館裏ではないが、目立たないところに呼び出されて「指導」を受けたり、実際に同級生に殴られて、左手小指の骨を骨折した。
先輩よりも先に試合に出たときは、その先輩はその後も私に目も合わせず、それ以降口もきいてくれなくなった。
ただ、美術の絵の授業の時だけ絡んでくるやつ多数。ひたすら下手とか言われる。
尚、かばってくれるのは大体女子生徒であった。これがまたよくなかったらしい。
百歩譲って、他の生徒からだけならまだいい。生徒を守る立場にいるはずである教員からも嫌味を言われたりと何かと攻撃を受けた。他のクラスの担任から嫌がらせもあった。ある他クラスの担任に至っては「田中先生(仮名)のクラスの篠原さんばっかり。不公平だ。」のような発言をしていた。
クラス担任というのは、自分のクラスの生徒を、クラス間競争の駒とでも思っているのだろうか?
体育の授業中に隣の人と話していたら、教員からサッカーボールを頭にぶつけられた。今ならパワハラで訴えられそうなもんである。「話を聞いていろ」、と言いたかったらしいが、私にだけ態度が違うじゃないか。(話していたのが悪かったというのもあるが、私以外にはボールをぶつけているのを見たことがない。)
卒業式の合唱の指揮の選定の際に「篠原さんばかり活躍しては不公平だから。みんな平等に。だから今回は篠原さん抜きで。」というコメント。
「平等」「公平」とは何だろうか。何事にも、同じルールでやってみたら、たまたま何をやっても私が出来てしまっただけじゃないか。まさに平等だし公平だろう。実際には少ない数の人だけが活躍せずに、なるべく多くの人に一度は活躍してもらいたい、という結果の平等にしたい、ということなのだろう。
おそらく日本の特に初等教育においては、平等や公平は、機会平等ではなく、結果平等なのである。まさに横並び年功序列社会の象徴である。よく考えると、結果を平等にすると嫉妬などはなくなるが、だれも努力しなくなる。
平等(2) 「機会の平等」と「結果の平等」浮動小数点から世界を見つめる
そんなこんなで「はずれ値」にやたら厳しい日本。高校・大学と進んでも、節々でいろんな組織や団体から除け者にされたり、半ば辞めさせられたこともある。
しかし幸か不幸か昔から筆記試験が壊滅的に苦手で、「え?なんでこれ間違えたの?」というタイプのケアレスミスも多い。選択問題で頭の中でCだと思っていたのに、なぜか答えにDと書いていたりもあった。(筆記試験重視の日本の知能社会下ではこの能力は結構重要なんじゃないかと思うので、相当に致命的である)。さらに節々に本番に弱かったこともあり、日本式教育の筆記試験配下では模試の結果などから加味しても「実力よりも下」の学校に入ることが多かったような気がする。進路的には、希望通りになることは、なかなかなかった。
後々考えると、このことが長期的に見ればよかったようだ。すぐにいわゆる超難関校に行っていたら、もっと丸くなっていたのかもしれない。
中高一貫の付属高校に高校から入り、部活と試験・文化祭など多方面に実績を残した時期には、褒められるのではなく、むしろ「目立たないようにしていたほうがいい」と教員側から注意を受けた。
ある教員は「鈴木君(仮名)は中学校1年生の時から部活もやめて勉強ばかりしてきていた。文化祭なんて参加もしてない。それを高校からふらっと入ってきた篠原君が、部活やりながら、文化祭とかもやっちゃって、さらに彼よりも模試の成績がいいだなんて、彼が可哀想だ。」などと私へ説明する。
本当にこれはどういう理論なのか。そんなことを言われて多方面に取り組み実績を出している側なのに否定される俺は可哀想ではないのか。
私は何か悪いことをしたのだろうか?「遊びに勉強にスポーツも頑張りましょう!」とかよく言っている割に、頑張って多方面に実績を残すと、他の生徒からいじめられるばかりか、大人から怒られる。「文武両道を目指しなさい!」といいながら、達成すると疎まれる。真っ向から矛盾している。
大学までになっても、一部教員から嫌がらせを受けたり、サークルなどでも省かれたりした。
それでもモンテッソーリ教育のご加護か、はたまた呪いか、私は迫害にあいつつも、高みを目指していた。
いつだったか見た、ディズニー版のヘラクレスには痛く共感した。(ディズニー版を強調するのは、オリジナルのギリシャ神話と大分異なるため)
神ゼウスの子であるヘラクレスは、紆余曲折あって、自分でもわからない間に人間界に紛れ込むが、ヘラクレスは持ち前の怪力で、人々からは疎まれてしまう。ヘラクレスは自分の場所を探し、旅に出た。
その際の曲がこちらである。”Go the distance”
“I will find my way, if I can be strong
I’ll be there someday, I can go the distance
I know every mile, will be worth my while
I would go most anywhere, to feel like I belong”
「くじけずに 強くなれば
行けるだろう いつの日か
たとえどんなに遠くても
見つけて見せるさ 僕の場所」
結局進学という意味では、事実上最後のチャンスとなる博士課程で、非常に運もよく、世界最高峰のケンブリッジ大学の物理学科へ合格した。
さらに日本からはいくつも返済不要の奨学金に内定し、当時最も待遇が良かった船井情報科学振興財団のお世話になった。途中からは、併給が認められているブリティッシュカウンシルの奨学生にも採用された。
キャベンディッシュ研究所はノーベル賞輩出数世界最多として知られている。専門領域のレベルの高さにも衝撃を受けた。ケンブリッジ、鬼才の連続であった。中には一生かかっても適わなそうな同年代のアインシュタインのような真の天才みたいなのも在籍していた。
スポーツはスポーツでオリンピック出ている医学部の博士なども。あげるとキリがないのでこの辺にしておく。
教員も教員で、世界中からタレントを集めたような感じの人たちが多かった。別の記事に描いた例ではこんな感じ。
- 物理学と社会学の博士号を両方持ち、ケンブリッジ大学で、両方の学部で教授職を兼任している人。
- 物理出身で機械学習などで実績を上げて工学部の名前付きの教授職に就いているが、再生可能エネルギーの何か国語にも訳されるベストセラーを出版。イギリスの科学アドバイザーも兼任し、元アルティメットフリスビーのイギリス代表な人。(故人)
- 大学教授をやりながら、特許を連発し、数社会社を経営4,5分野で大御所、部下メンバーも100人近い人 博士号はパスポート?Ph.D.日本と諸外国のすごさ・価値認識の違い
そんなキャベンディッシュ研究所に設置されているウィントンプログラムという奨学金プログラムの特待生として日本人として史上初めて採用された。未だに名前を間違えたんじゃないかと思っている。ケンブリッジ大学ノーベル賞最多研究所の特待生に採用されるには?
しかしながら最も感銘を受けたのは専門教育を行う学部学科の方ではなく、日々他分野を専門とする人々と寝食を共に交流しながら生活をするカレッジの方であった。
天は何物をも与えまくった「頭脳明晰・容姿端麗・運動神経抜群かつ好性格」のような超トップギバー・スペックが反則チート人間みたいな人物が散見された。いやそれどころか、むしろそれがスタンダードなのではないかとすら感じるほどであった。
ついでに富豪や貴族の末裔であったりもちらほら。生まれも育ちも才能も、場合によってはこれ以上を探すのが難しいの人たち。勿論みな学部にも所属しているので、かなり高い専門性はもちろん持ち合わせている。
正直なところ、日本にいたころは、自分は出来るやつだと思っていた。 しかしここでは、私はただアジアから来た普通の人であった。いやむしろ劣っていた部類だろう。
しかしこの時、がっかりはしなかった。むしろ嬉しさと高揚感で満たされていた。今までの人生に無かった立ち位置である。
ついに「僕の場所」を見つけた。めでたしめでたし、・・・とはいかない。到着してからもそう簡単にいくわけではなかった。
次章に続く。(第二章はこちら)