
目次
公開日:2025年3月1日
更新日:2025年3月2日
私は現在、会社員として専門分野の研究職をしながら、スポーツ協会の会長という無償の役職も務めている。以前はコンサルもやっていたり、構築運営していたウェブサイトごと事業売却したりもしていた。興味深いことに、これらの活動への熱意や情熱と、得られる金銭的報酬が必ずしも比例していないことに気づいた。むしろ無償の会長職に注ぐエネルギーの方が、給料をもらう研究職よりも時に大きくなる。
会社員といっても、研究職自体が私にとって仕事は趣味のようなものになっている。金銭的な見返りより、活動そのものの面白さや意義に価値を見出すようになった。
経済的余裕がもたらす意識の変化
私も元々は、もちろんお金のために働いていた。しかし、ある程度の経済的余裕が生まれると、働く意識が変わり始める。FIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的自立、早期退職)という概念があるが、完全に退職しなくても、お金に対する意識が変わるだけで人生の見え方が大きく変わる。
私は正式にFIREしたわけではないが、仕事から得られる収入に対する意識が変わってきた。
コンサルに限らないかもしれないが、会社員ではコンサルで成果を上げても、ボーナスが増えたり、昇進したりするだけであった。元々欲しいものがそんなになく、既に口座の数字と化している身からすれば、特段何かが変わる感じではなかった。
収入への執着が薄れる感覚
就職して最初の給料日には通帳の数字を見て「おお」と思っていた。しかし3回目には既に「あ、通帳の数字また増えてるわ」といった感覚になっていた。画面上の数字列としての認識でしかなくなったのだ。
経済学者ピケティの「r>g」(資本収益率が経済成長率を上回る状態)という概念があるが、自分の中でこの状態が達成されつつある。投資の額が増え、使うよりも増える方が多く、労働せずとも資産が育つ状態になってきている。そもそも今の会社員の「労働」自体が趣味みたいになっている。
実際、2024年8月5日の「歴史的な株価下落」の時には、面白がって東京証券取引所まで見に行ってしまった。
投資家が震えた8月5日、日本株急落の背景に流動性の急低下-金融庁
「私の年収って何なん?」と思うくらいの額が1日で下がった。普通なら資産が目減りして青ざめて焦るはずなのに、むしろ「今日歴史的な面白い現象が起きている」という好奇心が勝ってしまった。
これも収入や資産に対する執着が薄れ、「いやそんな事より目の前で凄いこと起きてる!」と別の景色が見えるようになった証拠かもしれない。
収入という目に見える成果が、もはや興奮や満足を与えなくなる。そして、金銭的な報酬が主目的ではなくなると、自然と「やりたいからやる」という内発的動機が主となってくる。これは高校の文化祭や、大学のサークルのような、純粋に興味や情熱で動く状態に近い。
かつての学生のアルバイトの時ように「この仕事だと時給いくらもらえるから」ではなく「この仕事は面白そうだから」「ただこれをやってみたい」「この問題を解決したい」という欲求が先立つようになっている。(仕事で有休をとってオリンピックの聖火ランナーのアルバイトを一日やったりとか、まあ前からそういう側面はあったのだが)
それはまるで、再び子供時代の純粋な好奇心を取り戻したような感覚だ。
幼稚園の時に、夢中になって朝から晩まで砂場の砂と泥を精査して最強の泥団子を作っていた、雨になっても滑り台の下に避難して夢中になってやっていたあの時の感覚に近い。
趣味とは何か?
ここで「趣味とは何か?」という問いを立ててみたい。辞書的な定義では、趣味は「仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄」とされる。しかし、この境界線はしばしば曖昧になる。むしろ無償どころか、払ってでもやってみたい、とも思うときがある。
趣味の方のはずが、どうにか上手くいかせたいということで、無償(どころか道具などは自腹のこともある)でも研究員の肩書をもらい、書いたところで収入が増えないのに現状の構想や状況をまとめて論文にして出したりもしている。これは趣味なのか、それとも仕事なのか?収入が発生していなくても、それが専門性を活かした活動であれば、気分に応じてどちらにも分類できる。
たまにちゃっかり入賞したりもしているが、賞金のためにやるようなものではもちろんない。仕事として時給を換算すると最低時給は簡単に割る。
日本マリーナ・ビーチ協会創立50周年記念論文で弊協会会長の論文が入選し協会創立50周年式典に参列
逆に「趣味」ではなく「仕事」と感じるのは、「ゴミ出し」とか、「会社での勤怠のフォームの提出」とか、そういった雑務的なものだ。強制感があり、本来やりたくないことをやらされている感覚がある活動。これこそが私にとっては、純粋な意味での「仕事」なのかもしれない。
つまり、趣味と仕事の区別は収入の有無ではなく、ある活動に対する内発的動機の強さにあるのではないだろうか。やりたくてやっていることは、たとえ収入が発生しても「趣味的」であり、義務感でやっていることは、たとえ無給でも「仕事的」と感じる。
無償の会長職と会社員の報酬の乖離
スポーツ協会の会長に就任した私は、会長としての行動は無償なのに会社員以上の責任感と使命感、プレッシャーを感じることがある。
日の丸を背負って会議に参加する責任の重さは、想像以上である。「ただいろんな国の人と握手したりして話をしているだけではないか」と思われるかもしれないが、一つ一つの言動に重みを感じる。
この感覚が最近一歩深まった。協会の会長という無償の役職と、会社員としての研究職の仕事の報酬の乖離がより顕著になってきた。収入という観点では圧倒的に会社員のほうが「価値がある」はずなのに、心理的充足や社会的意義の感覚では、無償の会長職のほうが強く感じることもある。
ある時は、提案が実を結び、素晴らしい会場を獲得できた時の喜びは何物にも代えがたかった。その達成感は会社員としてのボーナスが増加するのとは比べ物にならない充実感をもたらした。皮肉なことに、その会場視察のための交通費は自腹で、財布は軽くなる一方なのだが、心は満たされていく不思議な感覚だった。
反面、正当だと思われる説明をしても「協会の責任ではないか」のような詰め寄りが来たりすると、「待ってよもう、我々も無償どころかマイナスでやっているんですよ」と報酬がないからこそ感じる無力感や徒労感は時に深く、鬱状態に近づくこともあった。
しかし不思議なことに、そんな時でも「無償だからしょうがない」という開き直りの感情は湧かない。お金という外的な動機付けがない分、純粋に「これをやり遂げること自体」に価値を見出しているように感じることもある。
会長は無償だけど受けた(交通費を入れると普通にマイナスなのだが)、というのは確かにそうなのだが、そもそもお金を気にしていなかった。
やはり辛いことも結構あるけれど、「無償なんだから」を言い訳にしたくはない。
そしてたまに
「なんでやっているの?お金にもならないのに」のように言われることもある。
「…ん?やりたいからだけど…?ん?、むしろあなたお金のために働いているの?」となることが増えた。そこには純粋な使命感と情熱がある。お金のことはもはや頭にない。
お金のために働く。それは当たり前のことのように思える。しかし、本当にそうだろうか?人は本当に給料のためが主で働くのだろうか?そこに何か別の価値を見出したり、そちらの方が多くなったりはしていないだろうか?
批判の対象となる「やりがい搾取」も、やりたくて勝手にやっているなら、その概念すら出てこない。
実は私は「変わった体験」を積極的にやりまくっている。江戸切子を削ったり、藍染でシャツを染めたり、滝行をやってみたりと、日常とは違う刺激的な経験を求めている。これもある意味で経済的余裕がもたらした自由かもしれない。お金に縛られないからこそ、純粋に自分の興味関心に従って新しい体験を追求できる。
趣味と仕事のクオリティ
趣味で追究する人のクオリティは非常に高くなることがある。
クオリティは興味で追求してくる人にはかなわない。
だって好きでやってるんですよ?モチベーションが違う。仕事でやっていたら要件を満たせば終える。好きでやっている人は達成感のため、それ自体のためにやっていて、完全に外的な報酬などどうでもいい人は、好きでひたすら向上を目指すだろう。止められないじゃない。
経済的自立がもたらす自由な心の状態では、仕事も趣味のように「好きだからやる」という動機に変わる。そうなると、むしろクオリティは上がる可能性がある。
お金の制約を超えた生き方
経済的な余裕を得ることで、本当の意味で自分のやりたいことに集中できるようになる。お金の心配がなくなれば、純粋に情熱や使命感だけで動ける。損得勘定を超えた決断ができるようになる。
私の場合、研究職の仕事で十分な収入があり、協会の会長という無償の役割も引き受けた。これらは全て「やりたいからやる」という動機によるものだ。
ケンブリッジ大学で進路について話していた時、こんな話によくなった。キャリアアドバイザーも似たようなことを言っていた記憶がある。
“You should choose what you like and you enjoy rather than popularity and compensation.”
「知名度や待遇よりも、あなたが好きでやりたいことを選ぶべきだ。」
「全員トップ大学で教授を目指したり、全員起業したり、全員がコンサルのMBBに行くばかりではなくて、自分が関心があることをやりたいよね。もちろん、本当にやりたいなら、それでもいいと思うよ。」
キャリアサービスなどでもそんな感じ。「つまらなそうな激務の仕事で、20万ポンド(3000万円)よりも、5万ポンド(750万円)くらいでも、本当にやりたい好きなことやったほうがよいよね。」
このアドバイスは、経済的自立がもたらす心の自由に近い。経済的な制約から解放されると、本当に自分がやりたいことに集中できる。それは必ずしも「何もしない」ということではなく、むしろ「本当にやりたいことに全力を注ぐ」ということかもしれない。
キャリアアドバイザーも、幾多の卒業生が、結局そうなるのを見越していたのかもしれない。
結局のところ、経済的自立とは「自由」を得ることであり、その自由を何に使うかは人それぞれだ。
しかし、その自由を得た時、多くの人は「何もしない」という選択をするのではなく、むしろ「本当にやりたいこと」に向かって行動し始めるのではないだろうか。
終わりに
仕事で評価されると昇給したりボーナスが増えたりするが、それが目的ではなくなった今、私にとって人生はより自由になった。
その自由になった結果として有償の会社員の研究職と、無償の会長職を主にやっている。
「追加のトッピングの半熟卵を躊躇せずに注文できる」ような経済状態になれば、あとは「やりたいからやる」だけでいい。
それは高校の部活や大学のサークルのように、純粋に興味と情熱から行動することだ。
むしろ報酬が増えることよりも、純粋に事象と過程への興味や使命感が動機となる。
「無償の団体をどう運営するか?どんな制度設計をすれば持続可能になるか?」そういった問いそのものが知的好奇心をくすぐり、解決策を探る過程に価値を見出すようになる。
お金のために働くのをやめたら、本当の人生が始まる。
経済的な自立から生まれる新しい景色の中で、純粋に自分の情熱や使命感に従って生きられるようになったとき、本当の意味での人生が始まるのだと感じている今日この頃である。