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公開日:2017年2月15日
更新日:2019年7月20日
こんにちは篠原肇(@HajimeShinohara)です。現地を訪問している高校生に対し、私みたいなのでいいのかは若干疑問ですが、それでもなるべくやる気になってもらえるように心がけて発表をしています。その際によくある質問が「高校の勉強で、重要なのは何か?」です。今回はこれについての考えをまとめました。
どの科目が重要か?
さて、どの科目が重要か?というのはよく聞かれることです。
一般的によく言われているのは、「英語と専門性」です。これは一理ありますが、今回の記事で触れるものは少し異なります。どちらかというと、「どこででもやっていけるようにするにはどうすればよいか?」を考え、そのために必要な科目を紹介します。
前提として現在の世界は、大きく分けて二つの事柄で成り立っています。
「ヒト」と「モノ」です。
物の動きは、ある法則にのっとって動き、相互作用をするという意味で、「モノのことわり」と書いて「物理」です。物理学の学問体系に似通っています。
世界はものだけではなく、人がかかわっています。この意味では「ヒトのことわり」、正確には「人の守ることわり」、すなわち「倫理」となります。これには古典や哲学を含む、広い意味での「倫理」を考えます。
物理
最近ではイーロンマスクをはじめとした起業家も多く触れています。
慶應義塾大学時代私が日吉キャンパスで実験TAを担当していた物理学者の松浦壮教授もおっしゃっています。この本(宇宙を動かす力は何か-日常から見る物理の話-) 。物理学の論理的な思考はよく言われているように、基本的にどの分野、何にでも通用します。
では、物理学的な、徹底した合理主義だけを考えればよいのでしょうか?特に昨今の行き過ぎとも思われる効率至上主義と実利至上主義と相まって、私はこれでは危うさを感じます。
倫理
人間社会は人間が創っている以上、物にはない特有の、感情が入ってきます。物理が「もののことわり」である以上、「ひとのことわり」、すなわち「倫理」が重要になってきます。倫理観を学ぶのは、具体的に問題を解けばいい、教科書を読めばいいわけではないので体得は難しいですが、最も独学できる近道のひとつは哲学書などを含む広い意味での古典です。
社会生活では、法律を破らなければ、破ったとしても上手く隠ぺい出来て捕まらなければよい、というものではないでしょう。何がよくて何か良くないかは、広い意味でも倫理観に基づきます。「名こそ惜しけれ」とあるように胸張れないようなことはやらないほうがいいでしょう。ただこれも一定の人間性があって初めて、何がよくて何が悪いかがわかるというジレンマも含んでいます。
専門性
では、専門性は身につけなくていいのか?というのはよくある反論です。私は全く持って必要ないとは言っていません。もちろんこちらもないと厳しいです。上記の物理と倫理は汎用性が高いという意味でも、身に着けておきたいところです。
一般的に言って、重要であることが目に見えてわかるのであれば、習得は容易になります。
そういう意味では、専門分野での知識や経験の習得は比較的容易です。数か月から数年あれば身につくでしょう。例えばプログラムのコードなども、編集には必要になってきます。その際の問題は「どこのどのコードが動かない」と、非常に具体的なので解決も容易になります。情報化社会では、プログラムは出来た方が何かと便利なので出来た方がいいとは思います。
英語をはじめとした語学も同様です。「しゃべれないと辛い」となれば必死に練習するでしょう。人間、必要に迫られれば頑張ります。
さて総合して
必要に迫られれば、目に見えて必要なものは比較的勝手にやりはじめるでしょう。目に見えて成果があるもののほうが、一見してとっつきやすく、多くの人が飛びつくのはよくわかります。しかしながら、より重要なものは見えづらく、認知されづらいので、そもそも身に着けるのが難しいどころか、自分に身についていないことを発見するのが難しくなります。
いかに道具が優れていても、使い方を間違えると大変なことになるのは歴史的にも明らかです。強大なパワーを生み出すものは、使い方が素晴らしければ多くの人を救いますが、多くの人を殺すこともできてしまいます。
それらのツールを使うのは、人間です。
論理的な思考と、それぞれの人間性の上に成り立っていることを忘れるわけにはいかないでしょう。むしろ、論理力や人間性は、そういった専門性や成果を通して他者から見られることになります。
この時に、こういう感想を持たれていると、上記の氷山の下の部分が危ういことになります。
「あの人、専門家としてはいいけど、専門分野からちょっと離れると全くダメそう。」
「あの人、専門家としてはいいけど、人間性に問題があるから、なるべく近寄りたくない。」
そして、年齢が上がれば上がるほど人間性・人格的な部分は改善が難しくなっていきます。そういわれているときには、もう手の施しようがないのが現状です。
情報化社会のせいで、こういう評判も伝搬しやすくなっているのをお忘れなく。人間性をよく見られようとして、そこを本心に反して作っていると見受けられる人もいますが、違和感もありますし、そういった化けの皮は、はがれやすい世の中になってきました。
イメージとしてはこんな感じです。
氷山の絵でいえば、見えるところは、専門的な知識や経験、作品。この下で支えているのが物理や倫理です。
全ての行動は、物理を代表とする論理的思考と、倫理を代表とする人格の上に成り立っています。
難しさ
ただ、他人の人間性を教育するのは、一般ではなおさらですが、義務教育でも難しいところがあります。少し例を考えます。
ある教員が、生徒にこう言ったとします。AとBの二通りのコメントを考えます。
A「君は、とても人間性が素晴らしくて、人気者だけど、なんでこんなに勉強、特に数学が苦手かな・・・。もう少し勉強、特に数学頑張って!」
B「君は、とても成績がよく、どの科目もよくできるけど、なんでこんなにも人格が崩壊しているのかな・・・。もう少し人間性を見直して、性格を正して!」
Aはよくありそうですが、Bは言ったら教員が生徒の人格を否定したとして、下手したら懲戒ものです。人間性は最重要なもののひとつとわかっていても、指摘すらできない世の中です。人格は、若い時のほうが矯正が容易ですが、それでも矯正することを妨げられてしまいます。
また、教育者も人格を指摘できるほどの人格者である可能性もそこまで高くないでしょう。自分ができていないのに人に指摘するほど説得力のないものもありません。
やっぱり、自ら気が付くしかなさそうです。自戒を込めて。