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公開日:2021年7月25日
更新日:2021年7月25日
昨今のオリンピックや大谷翔平選手の活躍などで「日本人が活躍!」「日本人が勝利!」のような表現をよく目にする。
普段からこのような表現は多々見られるが、ことにスポーツの国際試合では多用されている印象である。
しかし、私自身も、2012年にはたまたまロンドンに滞在していたため、ロンドンオリンピックを観戦などもした。当時の若手研究者派遣ブログ(慶應義塾大学ITP「数理科学が先導するボーダレス基礎理工学若手研究者国際育成戦略」ケンブリッジ大学・篠原)
しかし、いつからだろうか、メディアが日本人の活躍を強調しているのを受けて「見て!日本人が1位!」と誇らしげに発言していることには違和感を覚えるようになった。
今となっては次のような考えを持つようになった(なってしまった)。
「確かにあの人は日本人だけど、あなたはチームのメンバーで試合に出ているわけでもないし、スタッフでもない。それどころか直接の知り合いでもないし、出身地が同じとかでもない。むしろ共通点は『日本人』だけなんでは・・・?」
日本人としては日本が多少気になるといっても、星座占いや血液型占いで、自分のものをちょっと気にしまうのと同じくらいの感覚である。
もちろん飲み会のネタで騒ぎたい等はわかる。ただあくまで同じ国籍なだけであなた自身は直接は関わっていないのではないだろうか?
なぜなのだろうか?メディアとの関係を考察したい。
日本人以外の友人が増えた
PhDで留学をするようになって、今までにどこにあるのかもわからなかった国の友人も増えた。2016年のリオオリンピックや各種ワールドカップの試合を見た時も「お前ってどこの国出身だっけ?」みたいな話をしていた。そうするといろんなことを知ることになる。ついでに各国の国際関係論の教科書に載っていそうな話が展開される。「日本と韓国は仲悪いんだっけ?」のように「インドとパキスタンは?」「ギリシャとトルコは仲悪い?」「アイルランドとブリテンはどうなん?イギリスとフランスは?ていうかスペインは?」「やーい!USA!USA!英語圏はUSA基本嫌い。」等といろいろ出るわけだが、これも同じ画面で映像を見ながら同じテーブルでお酒飲んだりしている中で出る会話で、なんだか本気で発言している感じではない。
メディアなどでは、各国論を展開することが多い。「日本人は排他的」のような国民性もあるが、あくまでそういう「傾向」があったとしても、個人は国籍の一部ではなく、ある国籍を持っている個人である。当たり前なことだが、この事実を忘れがちになる。
東京オリンピック関連では、個人的には日本人選手よりもこういうほうが親近感を覚えている。
日本人じゃないけど知っているや同窓生が出ている。正直この方が大きい。
スポーツの国際試合の経験や競技団体運営の経験
最近ではスポーツの国際試合や、協会の運営などに関わるようになった。このこともありそうである。結構裏が大変だったりする。そして他国の協会に知り合いが出来始めると、これもまた「同業のものの、別の国旗を付けた試合」のようになる。幸か不幸か少なくとも日本では、コーフボールはメディア利権にそこまで直接的に絡んでいないので、外野からの圧力などはないが、ここでそういう力が働くと、外野に対する「大人の事情」をしなければならないのだな、というような考えになるかもしれない。
メディアの対応も何度かあるが、これも多くは「すでに作られたストーリーに対するパーツの発言」を求められているに過ぎない。望まれない内容であればカットされていなかったことにされる。
選手は普段通りの試合をしているだけの可能性
規模は異なるものの、個人的には国際試合にも出たことがあるが、直接競技に関わっていない人々、いわゆる「外野があれこれ言う試合」は、オックスフォード大学とケンブリッジ大学の定期戦「バーシティマッチ」が最も近い経験である。大会の結果や、試合運びのマッチレポートも各校の会報などにも掲載される。
UKインカレ・日本選手権等も観客はいたが、これはどちらかというと、関係者界隈が観戦している状態であった。
研究室の人たちにも「オックスフォードには負けるな。」と言われ、それ用の隠語GDBO(God Damn Bloody O*ford)なんていうのまである。
【バーシティマッチ】ケンブリッジの応援 God Damn Bloody Oxford(GDBO)
この中で、「外野があれこれ言う試合」に選手として出場してどうだったのか?というと、試合前にアナウンスがあったりと少々雰囲気は異なるが、一旦試合が始まると、もう正直普段通りの試合である。やるからには負けたくない。くらいしか考えていない。むしろ途中からはそれも考えずに、ひたすら攻めて守る。高性能カメラで撮影されたりもしているが、それもカメラがどこにあるか?とかも気にしている余裕はない。
プロで試合結果に生活が懸かっていたりすると、また違うのかもしれないが、それでも試合中はそれどころではないのではないだろうか?「メダルを取ったら引退後の生活が」みたいなことを言うことも度々目にするが、おそらく選手はそんなことを考えている余裕はない。
試合の後に「あの時のシュートが」とか、「さっきのプレイ」言われたこともあるが、正直ピンとこないこともある。
たまにインタビューで「いや、そんなこと知らないっすよ。」みたいなことを言ってしまう選手が批判されたり炎上したりしているが、これが本当に正直な感想の可能性もある。「ぶっちゃけそんなこと考えてなかったし。よっしゃ、決まった!」くらいにしか思っていないのかもしれない。ていうか(競技にもよるだろうけど)そんなことをいちいち考えている余裕はない。
「試合に集中していたのでそれどころではなかった」というのもおそらく正直な感想である。
「息上がってるから、とりあえずインタビューの前に休ませて!」とかもあるかもしれない。
いうて選手同士は打ち上げでFacebook登録したりとか、ロッカールームで相手に「お前凄いやん」みたいに言っているので、メディアが言っているようないがみ合いみたいなことはない。
無観客試合なら猶更だろう。合宿の練習試合とそんなに変わらないかもしれない。
試合結果にストーリーや意味づけを行いたいのは外野
分かりやすい報道や分かりやすく伝えるためには、一種の分かりやすいストーリーが求められる。たとえ脚色しまくりで真実からは離れていたとしても。
特に国旗を付けた試合などでは、国に絡めたりと、いろいろな話のストーリーを盛り込む傾向がある。
他にもゆかりの地や、不祥事などなど。その他何でも。
よくありがちなフレーズを並べてみる。
「幼少期から辛酸をなめながら、苦しい選手生活、怪我をはねのけての金メダルです!」
「この地元のスタジアムで、日の丸を付けることにはどう思われますか?」
「不祥事がたたったのか、痛恨のミス」
これらの感想も、正直なところはこんな感じではないだろうか?
「ああ、そういえばそういうこともありましたね。よく覚えてますね。私は忘れてました。」
「ああ、そうか、確かにここ地元だったね。言われるまで忘れてた。」
「いやー、不倫と試合結果は関係ないっしょ。」
というのがおそらく正直な感想なのではなのではないだろうか。
事象にストーリー性を持たせていろいろ語りたいのは外野で見ている人たちである。
本人たちは特に意識もしていないかもしれない。本人以上に本人の経歴に詳しいじゃないか。
試合の結果を外野で見て、選手とは関係なく一喜一憂して、本人の今までの経歴からストーリーを勝手に思い描いて、勝手に盛り上がったり、勝手に暴れたりしている。
このストーリーに合わないような発言が嫌がられたり、批判されたりする、ということなのだろう。コメンテーターの忖度コメントに近いものを感じる。
日本のメディア的には理にかなっている
ここで日本のマスメディアとしては、「日本人!」に注目するのは理にかなっている。
客観的に考えると、現在のパスポート保有率が人口の1/4程度の中で、外国人の知り合いがいる方がおそらく少ない。スポーツをやっていても、体格のいい外国人と試合をしたり、チームメイトである経験を持つ人の方が少ない。ましては「国際試合に知り合いが出ている」なんて確率的にほぼない。
そんな中では結局共通点は「日本人」なだけなので、そんな同属性の日本人がガイジンと戦って勝つのを見るのは気分がいい、ということなのだろう。そしてこのストーリーを好む日本人は多いのでこの報道ばかりになる。日本人が強い!というためには、日本人が勝たないと価値を出せないので、メダルにこだわる。
アスリートと日本代表と日本人 -日本人の精神と報道の構造から-
「日本人は体格が優れない中苦しい思いをして」というのも、正直日本のような暮らすのにそんなに困らない国の選手で、ジュニアの頃から世界選手権で活躍している有名な選手が活躍するよりも、戦争・紛争国で生きるか死ぬかがかかっている難民の選手が活躍する方がよっぽど苦労していると思う。しかしやはりそこはガイジンなんだろう。
外野が邪魔をしていることもある
逆に無意識に邪魔をしていることもある。
もしあなたが、今までに海外に挑戦したり、あまり例がない進路を目指したり、今までの「常識」の範囲外の事をしようとした際に、周囲の同僚や教員・上司などから「お前には無理!」とか「あなたには出来っこない!」と言われたことはないだろうか?
でもそういう人も先述のように「日本人が世界で活躍!」と持ち上げていたりしないだろうか?
これも引いてみると、露骨なダブルスタンダードである。
ひたすら「大谷さんすごい!日本の誇り!頑張ってほしい!」等いう一方で、同僚、後輩や部下が海外に挑戦したい、とか言うと「お前は無理」「お前にはそんなことできっこない」とか言って必死に潰そうとするみなさん!
— はじめ (@Hajime77com) June 30, 2021
なおこの辺りの「日本人が活躍!」とメディアの報道を誇らしく言う一方で、身近な人が挑戦しようとすると足を引っ張りがちな傾向は何なのだろうか?内と外の違いなのだろうか?
おそらく「自分と同じ」と思っていた人が史上初などと活躍されると、なんとなく自分の存在を否定された気分がする、とかそういう感じだと思われる。黒人ルーツの人に対して「日本人じゃない」と言い出す認知とも近いのかもしれない。「黒人ならば日本人ではない」「スポーツに政治を持ち込むな」大坂なおみへの批判が的外れな理由
また別に考えたい限りである。
他人の結果に外野としてどうこういうよりも、自分でやったほうが良くない?
さて、上記のように、何事にも本人たちよりも、外野が勝手に騒いでいる状態になりがちになっている。
ここでオリンピックでなくても、なんでもいいので、自分で考えて、自分で取り組んで、自分で結果を出したほうが良いのではないだろうか?
こう思うからなのか「知らない他人を応援したい!」というのがあまり沸かない。
いや特に外国に行き始めたり、自分の事をほぼすべて自分で決めるようになった辺りから、沸かなくなってきた。
むしろ個人的には自分が何もせず他人に託すのは結構しんどい。特に自分がいろいろやり始めてから余計にそう思うようになっている。
ここで丁度、以下のようなツイートが流れてきた。
テレビの前で会ったこともない誰かを応援するのは性に合わなくて、それより自分自身がなにかを夢中になって頑張りたいですね。
自分の人生の主役になれるのは自分しかいないし、自分の人生を輝かせてくれるのは自分自身が積み重ねた努力だけです。
— Lillian (@Lily0727K) July 23, 2021
確かにこの通りで、人の応援に夢中になるよりも、自分の人生をどうにかできるのは最終的には自分しかいないので、メディアのあおりなどに惑わされず、冷静に目標を見失わないようにしたいものである。