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公開日:2019年7月18日
更新日:2020年12月30日
最近、日本のテレビをちらほら見るようになった。どちらかというと、つけているだけのBGMに近い状態である。直近でいわゆるピュアにグローバルな実力主義の最先端みたいなところに長くいたせいなのか、テレビでは、少し気になる表現があった。
それが「頑張る」である。
気にしているからなのかもしれないが、ことあるごとにキャスターが地方も「頑張っています!」とかドラマで「私たち頑張ったじゃない!」みたいな表現が耳に入ってきた。
この記事には「頑張る」についてみていきたい。例によって、個人の経験をもとにしている。
日本人は頑張るが好き
日本人は頑張るのが好きである。成果が出るかどうかは別として、「頑張る」のが好き。頑張ることが目的化していることもある。挨拶の「お疲れ様」にも表れている。
成功でも失敗でも建設的な結果が得られないのであれば、ただ疲れただけにならないだろうか?
実力主義下における「頑張る」の表現と使い方
実力主義の環境でも「頑張る」が無いわけではない。実際に頑張るに対応する表現で”Work Hard”があり、表現として使われる場合には、こんな感じである。
“We know that you have worked hard and had a lot of effort. However, you do not have enough effort…”
意訳「あなたが良く働き、良く努力しているのは知っている。しかしながら十分な成果が出ていないじゃないか。」
試合の際のタイムアウトの円陣「もう一歩前でディフェンスする努力!」という意味で鼓舞する意味でHard Workをするという表現はあった。しかし勤勉に働くことが目的ではない。
“You have worked hard. You have done your best. ”
「頑張ったのに、ベストを尽くして負けたのだからしょうがない。」
要するに「頑張った」は譲歩節の常套句である。重要なのは「頑張ったこと」ではない。「真剣に頑張ったのに成果出てないんだから、やめたら?」とか「頑張ったんだけどダメだったんならしょうがない。相手のほうが明らかに強い。」という意味である。
個人的な経験でも「頑張ってもダメな場合はダメ」
外国(イギリス)のスポーツという、ドライ中のドライな環境で、このことを目の当たりにした。
2人の選手がいた。A選手とB選手とする。
A選手は正直上手い。しかしながら練習にも遅刻ばかりで、サボりとかもある。B選手はその人と競る位ではあったが、比べられるとA選手よりは、ほんの少しだけ劣るあった。B選手は毎日時間には来て、練習は必ず参加し、片付けも積極的に行っていた。
さて、試合に出るのはどっちだろう?
「A選手は上手いけど、遅刻はするわ、サボるわで、風紀を乱すし和を乱す。一方B選手は練習も毎回来ていて、片付けまでしてやる気があって頑張っている。実力差は微々たるものなのだから、B選手を試合に出そう」
という意見を持つ人もいるだろう。特に一部日本人の感覚であれば。
結局どうなったか?
B選手は大会ではほぼ試合には出なかった。むしろ圧倒的な差が出来てから、A選手を休める意味もあって、コーチはB選手を消化試合的にコートに立たせた。
普段の態度とか、練習に遅刻するだとか、「頑張っている」とかは、もはや話題にも上がらない。練習に来るかどうかなんて関係ない。上手いんだからしょうがない。
毎日皆勤だろうが、片付けをきちんとしようが関係ない。試合に出たければその競技のスキルを磨くべきである。ただそれだけである。そういうのは、少なくとも試合に出るという観点から行くと無駄な努力という。片づけをちゃんとしていると”Kind”(親切な人)くらいに言われる。それでも大会に出るかは関係ない。
日本の礼儀や根性論に偏っている部活動を経験している私は、これには少しびっくりした。正真正銘ドライ中のドライである。
コーチに聞いてみた。なぜAを出したか、というよりもなぜBをそんなに出さないのか?
コーチ「私はコーチとして、このチームを試合に勝たせるのが役目がある。チームとして試合に勝つのが目標だよ?うまいのはA選手。だからAを出す。」
私「Bさんは毎日来てたし、片付けとかもしていたけども。」
コーチ「片付けとかしてKindだけど、上手さとそんなに関係なくない?Bもそのうち上手くなれば出られる。上手くなれば。」
可哀そうという感覚すらもどこにもなさそうである。確かにコーチの役目が勝つことに振り切るとそうなる。何とも合理的である。
頑張ったんだから、評価?
上の成果主義の感覚にしっくりくると「頑張ったんだから。」励ましや慰めとしては分かる。しかしながら「頑張っているんだから、評価しなさい。」というのは何か違う。
逆に適当にやっても軽く出来てしまう人もいるだろう。同時にこれを認めたがらないというのも傾向としてある。
感情を抜きにして冷静に見れば、適当にやっても成果が出まくる人が、本気を出したらもっとすごいことになりそうなもんである。日本のドラマや映画では、もっぱらこういうやつは敵役である。
また、こういう表現
「評価=成果=能力×努力」
はよく見る。
「ほら頑張った分だけ評価すべきだ。」という意見が出そうだ。
しかしよく見てほしい。上の式は足し算ではなく、掛け算である。能力の部分が、ほぼゼロか、はたまたマイナスなら、いくらやっても成果が出ない。それでは評価はされなくて当然となる。
運動音痴なおっさんの全力ダッシュよりも、ウォーミングアップ前のウサイン・ボルトのアップ前のスキップのほうが速いことは火を見るよりも明らかである。
人間の能力差は、身体能力ならいざ知らず、スキルやソーシャルキャピタルを含めた能力差であれば、数倍では済まない。おそらく数桁のオーダーで違う。下手したら〇倍とかではなく、一生超えられない壁みたいなのが存在するように思う。
「頑張ったんだから認めろ。評価しろ」というのは気持ち的には分かるものの、それは通らないだろう。組織や業界としてみた場合、むしろ通してはいけない。
仮に認め始めると組織や業界ごと変なことになる。頑張ったこと自体を評価するならサッカーの日本代表は何十万人も必要になるし、億万長者も何千万人も必要だ。
むしろ、頑張る人、正確には頑張っても成果が上がらない人にやらせ続けることは、他のもっと可能性がある人のチャンスを奪うことになる。特に席数に限りがある場合。
ドイツの軍人「ハンス・フォン・ゼークトゼークトの組織論」
軍人は4つのタイプに分類される。
有能な怠け者は司令官にせよ。
有能な働き者は参謀に向いている。
無能な怠け者も連絡将校か下級兵士くらいは務まる。
無能な働き者は銃殺するしかない。
「無能な働き者」は自分で適切な判断もできないのに、勝手に動く。
これは、余計な事をして迷走する者である。http://www.kokin.rr-livelife.net/zayuu/zayuu_hoka/zayuu_hoka_180.html
個人的な感情は置いておいて、もっと大局的な見方や全体としてみれば、全体にとって損失ともとれる。ダメな人の頑張った全力の本気、片手間で適当にやった人のほうが成果が出るからだ。
しかしながら、日本では「頑張った」が非常に好きで、これを無視できないレベルで認めている。「一心不乱にこの道何十年」を美徳とする。
ではなんでこんなことを書くのか?日本の現状に理由がある。
働き方改革・副業・兼業の解禁に関して
上の感覚を受け入れるのが難しい日本人もいるだろう。正直私も最初は少しもどかしかった。しかしながら、この感覚を受け入れる準備をしておかないと、日本でも今後生きづらくなる可能性が高い。理由は「働き方改革」である。特に副業・兼業関係。
「働き方改革って平等になるんじゃないの?」確かにそうだが、共産主義のようにリソースを平等に分配するのではなく、チャンスを平等に分配する方向になる。チャンスが平等になるのであれば、パレートの法則のようになるだろう。要するに2割の仕事が出来る人が8割のいろんなものを独占する。よって格差は大きくなる可能性もある。
詳しくはいろいろな記事があるのでそちらを参照ください。
「一芸に秀でるものは多芸に通ず」といわれるように、一か所で成果を上げたものが他の場所でも成果を上げることは想像に難くない。二兎追えば三兎目がついてくる。副業が禁止の状態であれば、そういう有能な人は、「最もおいしいポジション」や「最もおいしい業界」に集中しがちである。さらに副業禁止であったので、その次の業界やポジションへは手が出せない状況であった。
しかしながら、これからは、副業が解禁されると、本業としては最もおいしいポジションを抑えつつ、副業として片手間で新たな分野の開拓みたいなことも容易にできるようになる。そうなると、今まで「一人ひとつ」の原則で、優秀な人が副業禁止のため専業でしか来ないために優先順位が低くなり、相対的に守られていたような、あまり「うまみ」がない業界内での、比較的おいしいポジションへの進出もどんどん進むだろう。
特殊な技能が必要な業界を除き、正直ダメな人の本気よりも、有能な人の1%くらいの片手間のほうが有力な可能性がある。いわゆる仕事的な能力は1000倍以上だって可能性もあるのだから。よって「頑張ってもダメ」という状況が今後様々な分野で出てくるだろう。
終わりに
よって相対的に厳しい業界、例えば、ベンチャースポーツみたいな業界の発展自体にはこの状況は好ましい。(3年位前から言っているけども。)
有能な人の片手間を享受できるようになる可能性は高くなるからだ。
しかしながら、個人としては、今までの自分の立場を追われる人が出てくることもまた避けられないだろう。もちろん自戒を込めて。