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公開日:2016年4月13日
更新日:2019年7月21日
先日高校生とその引率の教員の方々から、「高校の科目で一番重要なものは何か?」と聞かれて考えていた矢先、このような投稿を見かけてしまった。
「勉強は必要ない」というこの意見。対抗した大人たちのツイートに思わず納得 https://t.co/QzAXc7VMtM via @misterspotlight
— HajimeShinohara篠原肇 (@HajimeShinohara) April 12, 2016
勉強は必要ない(役に立たない)という目線での意見に対抗した意見では、わかりやすいように「役に立つ」という目線で書かれています。また Spotlightでも、「役に立つ」に注目しています。
理系の学生と理系の先生に向かって、「重要な科目は漢文じゃないでしょうか?」と言ってしまった私は、学校での勉強が個人的には役に立つかどうかという以外にも、得るものがあると思っていますので、丁度いい機会だと思い、ここにまとめておきたいと思います。
国語(言語)
「人間が言葉を介して物事を理解していること」を前提にすると、言語はなくてはならないことになります。
現代文の授業としての国語の必要性についてはおいておいても、言語能力がないと、他の人と話したりものを読んだりしてコミュニケーションをとることが全くと言っていいほどできなくなってしまいます。
先人でも「文章力で得をした」エピソードは数々あります。
古文や漢文は、返り点や活用などはおいておいて、話の中身だけに注目すると、人間の本質的な考え方は、紀元前あたりからあまり変わっていないことを目の当たりにすることができます。その中で現代でも役立つ多くの格言やことわざが登場します。
例えば平家物語の冒頭の一部「諸行無常」などは、調子に乗っていると足元をすくわれるから調子に乗るな、という戒めとして利用されたりもします。
文化が違っても、例えばギリシャ神話にも、ほぼ同様の意味の「調子に乗っていたら破滅したエピソード」が数えきれないくらい出てきます。こういった人間の本質を身につけておくことは、何事にも有効になりえそうです。
数学
確かに複雑な計算は日常生活では使わないかもしれません。しかし「物事を定量的に評価する」という概念や、抽象的な思考方法などは、どんなことをするにも必要になってくるのではないでしょうか。そもそも客観的に見ることができないと比較が難しいでしょう。
理科
確かに細かい知識は必要がないことも多いでしょう。しかし「神はサイコロを振らない」というように、自然科学には偶然がありません。(正確には確率的な分布という意味ではありますが、自然科学の原理原則が、気まぐれということはありません)。そんな中物事を前提や原理原則にのっとって、理詰めで考える方法は、物事の対象によらず重要になるでしょう。
その意味では「似非科学に騙されない」という意見も全うなのではないでしょうか。
社会
これは古典にもつながる話ですが、人類がどのように発展し、現在に至っているか、その上で私たちの世界があることを知る、いってみれば位置づけをある程度知っておくことは、自分たちの行動にも影響が出てきそうです。
歴史も国や文化は違えど、多かれ少なかれ似たようなことを繰り返しているでしょう。細かい名前や漢字の表現はさておき、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ことや「巨人の方に乗る」などの先人の知恵を生かす格言が示すように、過去の例を知っておくということは、直接役に立たなくても、長期的な目線ではすべての行動に根本的に生きてくるのではないでしょうか。無駄なことを繰り返さなくて済むという効率化などにも影響してくるでしょう。
体育
Tweetでは体育に関する言及はありませんでしたが、ここまで来たので網羅してみたいと思います。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」と言われるように、体が健康でないとほかのことをやる前に、そちらに気を取られ、頑張る気すら失せてしまいます。風邪引いた際や、けがをした際に「健康第一」だと思ったことはありませんか?
また日本の武道の精神の流れによる、「礼に始まり、礼に終わる」に始まる礼儀作法は、何事にもよい人間関係を築くために、有効な手段となりうるでしょう。
音楽・美術
古来より芸術の代名詞としても使われるこの2教科。確かに勉強などしなくても、楽器の音を出したり、聞いたりもできるでしょう。絵も見たり、ある程度の絵なら描くことはできることでしょう。
しかし、音を表面上聞いたり、絵をただ眺めるのと、作者が表現した訴えを感じ取るのとでは、話が変わってきます。後者はある程度作品の背景などを知らなければどうにもなりません。そういった意味では、この二教科に加えて国語の小説などの文学も入ってきそうです。
人間が文化的な生物である、としたときに、最も他の動物や人工知能と差がつくのがこの2教科(3教科)を中心とした感性の部分ではないでしょうか?
そう考えると、今後ますます発展していく人工知能と差別化を図るためには、これらの感情に関する教科は、人間として生きていくためにはより重要になってこないでしょうか?
漫画やアニメとかでも代用可能だという意見もあると思います。それも個人的には賛成ではあります。しかし、それらの漫画やアニメの作者はこういった古典的・規範的な文学・音楽・美術といった芸術に少なからず影響され、漫画やアニメ作品に反映していないでしょうか?そう考えると元をたどるのは楽しくなってきそうですね。
家庭科
こちらも「衣食住」を中心に人間に必要なものです。体育でも触れた「健全な肉体と精神」のためにも、衣食住について知っておくことは何かと役立つでしょう。そもそも、自分の身支度が自分でできないのは始末が悪いのではないでしょうか?
技術
TweetでもPCについて触れられています。今後人工知能やコンピュータは急速に発展していくことでしょう。そんなコンピュータを操るには、操作をしている仕組みや方法のとっかかりを知っておくことは実践的に有効ではないでしょうか?
大工についても触れていますが、壊れたものをねじとかで治せると、何かと便利ですよ。業者をいちいち読んでいたら無駄に費用ばかりかかってしまいます。
外国語・英語
急速に国家間の壁がなくなっていっている昨今、英語はできないと困ることになりそうです。日本語しかできないのであれば、日本以外へのフィールドはかなり限られてきます。日本は今後経済的にも縮小傾向にあるので、否応が外国人とコミュニケーションをとる必要が出てくるでしょう。
特に語学でアドバンテージをとりたいのであれば、最低限英語だけではなく、第二第三外国語ができたほうがよさそうです。
まとめ
確かに各教科に出てくる細かい知識は、使わないものも多いかもしれません。しかし、一般的な概念は有効なものが多いのではないでしょうか?そして人間は基本的に抽象的な概念は、具体例を通してしか理解できないので、多少細かな知識を通して学ぶという方法をとることになっています。
即効性を求める気持ちは痛いほどわかります。それでも「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」という言葉もあるくらいですから、すぐに、明らかに役に立つことだけをひたすら追い求めるのは、長期的に見れば、必ずしも良いことではないのではないでしょうか。
そもそも中高時代、私自身も勉強ができたほうではなく、未だにできるわけでもありませんが、こういう風に考えれば、(もし中高生時代の私がそう考えることができれば、)学校の教科も楽しくなってきそうです。
そもそも私自身、やっておいてよかった、と思うこともたまにある反面、もっとやっておけばよかったと思うことのほうが山ほどあります。基本的に何事も「できて損なことはない」と思うので、やってみるのはいかがでしょうか?