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公開日:2022年8月23日
更新日:2022年8月27日
最近、以下の発言が話題になっている。
数年後、経験人数が優劣を決める絶望へと向かうことを今の我らは知るよしもない… pic.twitter.com/tdfnCJzcwt
— こめっと (@KU_comet) August 21, 2022
平原依文さん
https://meg2525.com/hiraharaibun/
「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」女性起業家の発言が10か月経って“炎上”
ワイは必死に本で勉強して試験を突破して生き抜くしか方法がなかったが、「経験中心の履歴書の受験」なんてものを出されたら、必死に頑張って勝ち上がろう、豊かになろうとしてた貧民大衆は、突然金持ちに札束で叩かれ崖の下に落とされた気分やで。
お嬢ちゃんは札束でぶん殴ってることも気づかない。
— ゆな先生 (@JapanTank) August 22, 2022
「学歴中心から経験中心の社会へ」というやつ、学歴社会が☓☓なのは間違いないんだけど、経験中心にすると…しかも子供の頃の経験となると99%「実家の太さ」が全てになるんだよな。貧乏な子供、当然だけど貧乏なうえに子供なので習い事も旅行も出来ず、履歴書映えするようなキラキラとは無縁になる
— rei@サブアカウント (@Shanice79540635) August 22, 2022
意見に出ているのは、多くは選抜される側の視点である。
ここで、本記事では大学ではないが、スポーツ協会の運営をはじめとした、人員を選抜する側の視点の個人の経験も踏まえて、この点を考えていきたい。
競争する・選抜される側の視点
まず、選抜・評価される側、競争する側の視点を考える。
競争に参加する側の立場からは、「なるべく公平に」または「少なくとも不利にはならないように」してほしい、と考えるのが自然である。
ここで、入試の場合には「推薦枠がない高校は不利だ」「実家が太い方が有利だ」等等思い思いの意見が出てくる。
私も実際受験生の時に「進学校で受験対策ばっかりやっている高校の方が有利なんじゃ?」とか「塾や予備校に何教科もいける人の方が露骨に有利なんじゃ?」と感じたのは言うまでもない。
スポーツでも似たようなことが起こる。
「体重が重い方が有利だ」
「体格がいい方が有利」
「同じ国ばかりでやると、開催国が有利」
「最新の設備が手に入るほうが有利」
等。
お金が潤沢な国やクラブの方が強いことを揶揄して「経済ドーピング」等と呼ばれることもある。
服や靴などにも毎回規制が入っていく。
なお、同じ国ばかりが勝つと、ルール変更が行われたりする。特にアジア系が勝ち続けると採点方法が変わりがちな傾向があったりもするようである。世界史を見ていても、欧米中心に回っている状況は、なんとなくその辺りは想像がつくだろう。
競争させる・選抜する側の視点
一方で、大学等を運営し、競争させる、人員を選抜する側の視点に立てばどうだろうか?
シャカイジンケイケンをある程度積んだ視点から行けば、定員が一定の人数で固定であるならば、なるべく同じ人数で「付加価値が高い人材」を集めたい、と考えるのが自然である。
社会人経験(シャカイジンケイケン)とは何か?定義・多角的な比較と考察 はじめのすすめ
この「付加価値が高い人材」とは何だろうか?
正直高校生自身に付加価値があるかどうか?というのは少し難しいだろう。国際的な大会で既に入賞していたり、画期的な発明をしているような頭角を現していれば本人の能力として認められそうだが、それはなかなかに難しい。
ここで残るのは、そうである。「親の資産・人脈など、要は実家の太さ」になる。
実家が太い学生の方が、寄付が集まりやすかったり、新たなネットワークにアクセスできる等付加価値が増える可能性が高い。よって運営の立場からすれば「実家が太い人材の方が付加価値が高い」と言える。「稼げる大学」を目指すのであればなおさらである。
オークションで入札の際に競争させて値段を釣り上げるように、競争を煽ったほうが利益が上がる可能性もある。
変わったスポーツの業界では、その変わったスポーツが上手いということに対して付加価値はそれほどないのが現状である。スポーツが強いことによる付加価値があるのは、該当するスポーツが主にメディアが取り上げる対象となっている等利権の部分が大きい。
よって運営の視点に立てば、スポーツが強い以上にコネが色々ある、容姿がすごく良い、メディア関係を動かせる、有資格者で運営の仕事が出来る、大きな額のお金を動かせる、等の人材の方が「付加価値が高い人材」となる。
最も、スポーツが強い人たちからすれば反対されがちな発想である。
ここで「スポーツ→筆記試験」と置き換えれば、似たような構造になっていることが分かる。
その他の構造
「身の丈に合った受験」
日本は、学歴社会というよりも、どの学校を出たか?が重要になる「学校歴社会」とはよく言われている。その中で日本の方針でいくつか出てくる単語がある。
「身の丈に合った受験」
「自分の身の丈に合わせて…」 受験生の反発買った萩生田文科相「民間試験」発言
これは、一時期話題になったが、政府も「わきまえた志望校」や「自分の身の丈に合った受験」をしてくれと言っている印象を受ける。
稼げる大学
こちらも最近話題になった単語である。
「稼げる大学」を目指すには、ネットワークと能力等の様々な資本が必要になるが、これも上記のように筆記試験よりも実家の太さの方が適性が高そうである。
「稼げる大学」へ外部の知恵導入 意思決定機関設置、来年法改正
これらから類推すると、日本政府は階層の固定化を推進している可能性は否定できない。
経験が経験を呼ぶ
中途採用などの求人を考えれば明確であるが、経験は「経験が経験を呼ぶ構造」となっている。
今までの経験と実績があって次の経験や実績が積める。中途採用に応募するにも、必須要件の経験やスキルを満たしていないと、経験や実績が積めるポジションに応募する書類選考に通らない。
そして一度いい経験や実績、キャリアを積めるとそれを元手にさらに良い経験が積める形となる。
オッズが高く強い馬と、オッズが低く弱い馬のレースのようになっている。
「選ぶ側」からすれば、強い方がオッズが低いのではない。高い。ハイリスク・ローリターンとローリスク・ハイリターンの二極化になる。
実績があって勝つ確率が高い馬の方が、勝ったときに返ってくる額も高い。勝率が低い馬の方が返ってくる額も低い。
リスクの観点から考えるキャリアにおける分布/期待値/確率 はじめのすすめ
初期条件に帰着するが、最初は、多くの方々が指摘しているように親が買い与えていることが多いため、初期条件が親ガチャ実家の太さに依存する、ということになる。
実家が太い方々の視点
一方、実家が太い方々は太い方々なりに「実家が太いから上手くいった」と言われるのを相当に嫌がる傾向が見られる。
「うまくいったのは自分の努力と能力の結果で、お父さんが有名だからではない」のような調子である。
NetFlixで見られる大学の裏口入学スキャンダルでも、受験コンサルタントに賄賂を渡し、子供を名門大学に入学させていたことが判明したものだが、子供には賄賂を渡した事実は知らせずに、あたかも正当な方法で入学できたように見せかけるのが重要であったようである。
それくらいに、「実家の太さで成功した」と思われるのは嫌な様子である。
バーシティ・ブルース作戦: 裏口入学スキャンダル – Netflix
同時に「実家が太くて、散々下駄吐かせてもらっているのにあのザマ」と言われるのも避けている印象である。
競争をした際に(ともすれば私のような)どこの馬の骨か分からないようなヤツに負けるのは気に食わないのかもしれない。
夢は見せるもの、現実は突きつけるもの 親ガチャ・身体・学歴を参考に はじめのすすめ
運営側・選抜する側と実家の太い層の重なり合い
更に大学に限らず、運営を行っている側や選抜をする側と、実家が太い層は相関が高そうである。いわゆる支配層側、と言ったところか。
例えば名門大学を選抜する側で、実際に自分の子供と同じような年代の生徒を選抜をしている立場にあれば「うちの子も受かってほしいな」と思うのは自然なことだろう。もし出来るならば「知り合いの選抜担当に言って、お願いできないかな?」等と思うのは自然である。
ここで筆記テストだけであれば、いくら融通を利かせようが、どんなにSAPIXや鉄緑会に重課金して手塩にかけて育てても、入学試験の点数が足りなければ合格できない。
さらに(ともすれば私のような(再掲))どこの馬の骨かわからないSAPIXの存在も知らないようなわけのわからないヤツに、自分の重課金して手塩にかけて育てた子供が負けて入学できないかもしれない。
そうなると、気に食わない、と感じるのは自然なことだろう。
一方で、今回話題に上がっているような「経験重視の履歴書」とすれば、課金額と経験が比例するので、自分の重課金して手塩にかけて育てた子供が、(ともすれば私のような)どこの馬の骨かわからないようなヤツに負ける可能性は下がり、気に食わなくなる可能性も下がる、ということだろう。
一言で言えばこうなる。
「うちの子には、小さい頃から塾や様々な経験にも重課金してきたのに、よく分からんガリ勉の田舎っぺが合格で、うちの子が不合格だと?あり得ない!不公平だ!そんなガリ勉が社会の中枢に行けば世の中にも悪影響だ!うちの子が有利になるように経験中心で合否を決めろ!」
こういう想いは、本人よりも、親の方が強い印象を受ける。
建前「学歴中心の履歴書より経験中心の履歴書」
本音「私、あるいは私みたいな人に有利な世界が欲しい」— ボヘカラ (@BOHE_BABE) August 22, 2022
終わりに
私自身、親の言葉を借りれば、私の実家は「モヤシみたいな細さ」である。このためペーパーテストではなく経験重視の採用の世界であれば、私は有力大学には進学できていなかったのは確実である。さらに給付奨学金が取れなければ、ケンブリッジ大学にPhDで留学も出来ていなかった。実際にリーマンショック直後に出願したアメリカの大学院(おそらく年間700万円程かかる)は、奨学金が付かなかった結果、入学を辞退している。
頑張れば報われる的な「アメリカンドリーム」的な思想があるので、自己責任論と組み合わさって自尊心が削られる部分はおそらくある。ここで「人生は生まれが9割」のように階層が明確化され、名言されていれば、むしろ傷つくことは逆に減るかもしれない。
「縦の移動」もせず、検索すれば「ヤンキー」と出る公立中学出身で、マイルドヤンキーのように暮らしていたかもしれないし、それはそれで幸福度は高かったかもしれない。というのも以後の悩みは、基本的に地元から出なかったら出現しなかったものである。
最も、人生は試行回数が1回だけなので検証も出来ない。本記事では好き嫌いではなく、あくまで構造に注目した。
低学歴の世界・社会の溝と価値観と常識の差を地元で目の当たりにした話 はじめのすすめ
ご参考いただければ幸いである。