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公開日:2018年4月5日
更新日:2020年9月28日
半年ごとの留学生レポートです。今回は博士論文と、最終口頭試問についてまとめました。
http://www.funaifoundation.jp/scholarship/201803shinoharahajime.pdf
どうにもならない部分もあるが、指導教官選びと研究グループ選びは慎重に。
—全文—
イギリス人指導教官の元での、イギリスでの博士論文の執筆
博士論文の執筆は想像以上に大変。これはおそらく賛成いただける人が多いだろう。その博士論文が、大学が大学なことと、English-English(英語らしい英語)というものに、さらに輪をかけて相当に悩まされた。
たまに日本語で専門用語を調べた際には、アップロードされている日本の大学の博士論文がヒットすることが多かった。「この長さ、この内容で卒業させてるんだから、日本だったらとっくに終わってるんじゃないか…?パッと見る感じ自分の1チャプター分くらいしかない。」などと考えるだけ無駄なことを時折考えるなど、相当に追い込まれていた。
英語らしい英語というのは、日本でも時折話題になる、地域による英語の綴りの違いや単語の使い方の違いのことである。例えば、centerはアメリカ英語なのに対し、イギリス英語ではcentreとなる。This is quite common. (これはかなり普通である)。のquiteの使い方は、quite English-Englishである。特に、本質的なことしか気にしない物理学科では、そんなことを気にする人は、本当に一部のイギリスに誇りを持っているイギリス人位であろう。このような本質的な部分から遠い部分の直しにより、提出期限に間に合わなくなった。指導教官も締め切りは知っているはずだが、「延長、延長!」とか言って気にしない。さらに、私は留学生なので、ビザの問題がある。ケンブリッジ大学では、博士論文に提出期限を守れないと、ビザが失効になる。その間も、他の学生の手伝いをさせられていた。
一度は、2ヶ月間の延長申請をした。この申請には、指導教官・学部・カレッジ・学位審査会・大学院委員会全ての承認が必要であり、相当に面倒であり、さらに結構審査が厳しい。幸い審査を通過したが、この時点ですでに屈辱的であった。さらに延長の場合には無給になる。事情を察するに、グラントもない様子である。その2ヶ月間も、ひたすらに、書いては直され、書いては直されを繰り返した。上記のような非常に細かい部分でさえも、反論をしようが何をしようが、私が直すまで絶対に折れずに指摘されるために、もはや直さざるを得ない。さらに第二指導教官というバックアップの教員が、スケジュールを見張っていた。私は「時間に限りがあるので、細かい部分は良いから、全体的なところを先に見てほしい」と何度も頼んでいるが、指摘されてもなかなか気づかないような細かいところが気になって仕方がないようである。さらにそんな中でも、他の人の手伝いをさせられていた。無給で有給の後輩指導か。俺は奴隷か何かなのか?ローマ時代の奴隷は、現代のサラリーマンよりも待遇がよかったと聞いていたのだが。同時に、客観的に考えると、この状況でさえも、学費を払う必要があり、かつ無給な状態が通常である日本の大学院よりは、好待遇であるという点には驚きを隠せない。この辺りでは不眠症にもなり、人間不信にもなった。共同研究者には事情を説明して実験を止めざるを得なかった。
そんな中、さすがに2回目の締め切りは守ってくれるであろうと、内心期待はしていた。しかし、その2回目の提出期限前日に指導教官から「えー、明日提出無理じゃない?」というメールが来て、その場でめまいを催し、吐いた。マラソンでゴールテープ向かって走っていたら、ゴール直前になって、ゴールテープが際限なく逃げていくようである。どこかで足がもつれて倒れるのは、想像に難くない。
直せと指摘された部分は、バックグラウンドの深さと、結論の「トーン」であった。トーンというのは、論調や単語のチョイスを変えて描きなさいということである。日本語で考えればわかるが、ネイティブでも結構難しいことであろう。2回目の延長申請は、案の定承認されなかった。結局ビザが失効になり、イギリスを離れることになった。半ば国外追放と同じ扱いである。最終確認と提出は、日本から行うことが余儀なくされた。さすがにこのマネジメントの実態に対しては、カレッジなどから指導教官に警告が行ったようである。この時点で、私はもう何でもいいから、一刻も早く終わらさせてくれ、としか考える余裕がなかった。
日本に帰ってからも、English-Englishや、トーンについてのコメントを受けた。一刻も早く出さなければならない状況は同様である。しかし「クリスマスホリデーだから見てない。」とのこと。なんともマイペースなもんである。時差の関係で、メールは日本で起床した時間あたりに来ていることが多い。この期間は、朝起きるのが憂鬱であった。メールボックスを確認するために心拍数が上がった。メールが来ていないと失望する一方で、メールが来ていると、さらに緊張が走った。
研究自体の内容については問題がなかったことから、精神の限界で壊れかけている私が、ひたすら日本ではありえないような強めの催促をしていたところ「博士論文の提出は、最終的には本人の自由」とのこと。それならもっと早くにそう言ってほしかったものだ。その後すぐにケンブリッジ在住の友人にファイルを送り、提出してもらい、博士論文の提出を済ませた。
審査会の練習
提出が終わってからは、スカイプを使って、口頭試問の練習会をすることになった。重箱の隅をつつきまくる感じのことをひたすら聞かれ、フィードバックは毎回「ここが分かっていない、ここはこうやって説明した方がよい、他には?まだこんなこともあるだろう?、今のは辛うじて正しい結論を言ったかもしれない。辛うじて。」等と、きついフィードバックをひたすら浴びせられた。この状況で自信を持てという方が難しい。
Viva (口頭試問)
イギリスの大学では、指導教官以外の審査員(examiner)が2人で博士論文の審査をする。1人は学内の所属で、もう1人は学外の所属である。私の審査員は、内部は同じ学部の教授で、外部は、シンガポール国立大学の教授であった。博士論文は、事前に審査員に郵送され、深く読まれている。私の審査員がラインマーカーで博士論文に線を引いたり、付箋を貼ってあるところを目撃した。審査は、(修正が必要な)合格だけでなく、再審査や、不合格(修士号を取得)等もありうる。合格以外になった人を少なくとも複数は知っている。そのため部屋に入る直前の私は気が気ではなかった。足が生まれたての小鹿のようになり、じとーっとした冷や汗が額に滲み出していた。
2018年3月15日16時00分。ケンブリッジ大学、キャベンディッシュ研究所、マクスウェルセンター、ブルーミーティングルーム。発表は口頭で、ホワイトボードの前に立つ。事前のパワーポイントなどはない。心拍数が上がっており、真冬に暖房の効きすぎている部屋にいる時のように、耳が暑い。
一旦始まってみれば、説明に集中しており、途中からは、通常の発表とディスカッションとしか感じておらず、審査であることが頭から消えているほどであった。時折意地悪な質問と思われるものもあったが、なんということではなかった。むしろ審査員が「ああ、なるほど。」という反応を示していた。3分プレゼンなどのアウトリーチの発表で気にしている説明能力がこんなところで役に立つとは思いもしなかった。先述のビザ失効になってまで直しを行った、英語の綴りや、結論の「トーン」に関しては何も言われず、「イントロダクションの深さ」として入れることを指摘されていたセクションについては、むしろ「博士論文の主旨から言って、こんなに細かく書く必要はないと思うけれど、何でこのセクション追加したのか?」と聞かれてしまうほどであった。アメリカ英語、イギリス英語については、「そんなものは物理の研究には全く関係ない、誰が気にするんだ?」とはっきり言っていた。そもそも審査員はイギリス人ではなかった。最後の方の質問は、分野としての未解決問題であった。「仮にその手法が使えない場合はどうする?」「これやったらどうなると思う?」等である。審査員「私たちも分からないから、思う存分言ってみて」と、不意にブレインストーミングが始まった。
一度部屋を出て外で待つように言われ、部屋を退出した。部屋を出る際に時計を見たところ17時37分であった。通常は、このvivaは2-3時間続くと言われており、公式ページにもそう書いてある。私の場合は97分で終わってしまった。部屋の外での待機時間は、15-20分と言われている。この間「審査時間短すぎないか?落とされるのか?」等とさらに心配をしていた。まだまだ不安な時間は続くと思っていたところ、2-3分ほどで呼び戻された。その短さにも驚いた。余計に不安になり、少しだけ足が生まれたての小鹿に戻っていた。
内部審査員が、クイズミリオネアの、みのもんたのように、こちらを無表情であるものの、笑みを浮かべながら、私を見つめた。ほんの数秒のはずであるが、あの瞬間は、口頭試問自体よりも長く感じた。
“Your work is new enough, and you know enough. Therefore we will recommend you as a Doctor of Philosophy to the Board of Graduate Studies. Congratulations. ”
急に肩の力が抜けた。
一瞬「ファイナルアンサー?」とか頭をよぎったが、そんなことは何も言わずに、すっと頭を下げた。公式な連絡は大学委員会から正式に送られるそうである。訂正箇所は、タイプミスと、プロットサイズの大きさであった。修正として指摘されるうちで、最も小さい修正の部類とのことである。数日以内に直しを提出し、博士号が確定した。
ということで、肝心の審査は、あっけなく終わった。むしろ拍子抜けであった。もちろん審査員には言っていない。
マネジメントの重要性
上記のように、最終的には博士審査を通過することができた。しかし、特に博士論文提出前までの状況は悲惨であった。指導教官がマネジメントを得意としている場合には、時間内・期限内に修了すること・出来るように最大限を尽くすのが通常だろう。しかしながら、そうでない場合には、上記のような散々な目に遭う可能性もある。こればかりは、働き始めた際には分からないので、気を付けようがない。私の博士論文の質の向上に努めていただいているのはよくわかり、感謝はしている一方で、リソース関しては、背に腹は代えられないのもまた事実である。本人の反応を見ている限り、悪意は全くなく、ナチュラルにリソースを気に出来ないようだ。とある国際会議で、指導教官の共同研究者たちが「あの人は超・超・超!完璧主義だから」と言っていたことが、何なのかが分かった気がする。
考えてみれば、同じ指導教官の学生で、期限内に終わった人が私も含めて1人もいないことに気づいた。他の学生は、EU圏内のため、ファンディングの延長が出来たり、ビザの必要がなかったりなど条件は異なるが、期限内に終わっていないのは事実である。最も、私が始めた頃には、まだ卒業生が誰もいなかったので、この辺りを確かめることも不可能であった。
結果としては、とるに足りない部分を直すことによって、必要のない延長をしていたことになる。しかも無給である。その割には他のメンバーの手伝いをするよう言われていた。奴隷なのか俺は。さらにビザの再申請などの、間に合っていれば必要のない無駄な作業が余計に増えていた。必要のないことをするためにさらに、必要のなかったはずの手続きを何個もすることになるとは、何度手間なのだろう。この関係で半年近く卒業が遅れた。
今後このようなことが起きないよう、他の先生たちにもお願いはしておいた。それでも、他の教員や学部の関係者が見張っていたとしても、締め切りを何回も守れていなかったのだから、どこまで効果があるかは、不明である。
友人の重要性
暗い話が続いたが、良い面もあった。友人関係である。ネイチャーの記事でもあるように、大学院生は、一般社会の人々の6倍、不安を抱えているそうである[1]。原因の一つに研究室内の狭い人間関係もある様子である。私自身、もし仮に研究室の人間だけでは、もしかしたらこの博士課程は乗り越えられていなかったかもしれない。
ケンブリッジ大学は、学部の他にカレッジにも所属する。大学のクラブにも所属できる。クラブは、学部生と大学院生が入り混じっている以外は日本のサークルや部活と変わらないが、カレッジのMCR(Middle Combination Room)という集まりは、全員大学院生なものの、所属する学部がまるで違う人たちの集まりである。このためお互いに悩みを共有し合っており、助け合っている。カレッジとクラブの友人達には非常に助けていただいた。心から感謝している。登録延長の際に無給になった時期には、何かにつけ、「夕食を作りすぎて余っちゃった」と数日分は食べられるであろう量のラザニアをくれたり、料理好きの友人は、夕食に頻繁に招待していただけたり、他にも「〇〇が来るから、一緒に飯食いに行こうよ」と言って、私を呼び出し、おごってくれた。何度も。精神的にも何度も救っていただいた。彼らには一生頭が上がらない。そんな彼らが、各コミュニティで博士審査の祝勝会を開いてくださり、一週間で何杯シャンパンを飲んだかわからない。
最後に、ケンブリッジ大学では、赤い門のあるStudent Registryに博士論文を提出する。審査用のソフトバインドバージョンの博士論文を提出する記念にドアの前で写真を撮るのが通例となっている。私の場合は、上記のように、自分での提出はできなかった。しかし、どうしても友人たちと写真を撮りたかったために、提出締切日当日に「イントロダクションの深さ」と「トーン」がダメだしされている未完成の博士論文を印刷し、あたかも正式に提出したかのようなイベントを開催した。
雪の日であったが、シャンパンをかけていただいた。この日にちゃんと提出できた体で、記憶に残したいところである。この建物の人が出てきて「おめでとう、だけどシャンパンで汚れたから、ドアを掃除しなさい」と怒られて、掃除を開始。実は提出していない、などの説明は明らかに大変だったので、「ありがとうございます」っと、答えたのだけは鮮明に覚えている。
なんとも思い出すのですら、辛い博士過程の終盤であった。少なくとも同じような環境での博士論文の執筆は二度とやりたくはない。
しかし、素晴らしい友人が出来たことが、何よりも実りのあるケンブリッジ大学での博士課程であったと、身に染みる思いであった。
船井情報科学振興財団による多大な支援があり、多難ではあったもの最終的に博士号取得を報告することが出来ました。ありがとうございました。
[1]https://www.nature.com/articles/d41586-018-04023-5
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