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公開日:2020年9月10日
更新日:2020年9月15日
日本は、平成の時代が終わり、令和という新しい時代に入った。「働き方改革法案」が施行されたり、副業が解禁の風潮になってきたりと、日本でも徐々に労働の多様化が広がっている、少なくとも制度的には広がろうとしているように見える。しかし働き方改革も副業も風潮になっているだけで、実際は禁止な企業もまだまだ多い。主な理由として「技術の流出」や「本業への支障が出る」をあげている。
よく言われているのは現状の制度上の理由で広まりにくいという説明がされている。しかしそういった仕組みによる理由だけで、副業を禁止しているのだろうか?と考えることが多くなった。これについて考えていきたい。
機能的な側面
まずよく言われる与える機能的な側面である。雇用主からすれば、雇用者に与えられる情報は少ないほうがいい。そして他に移れなくなって、しがみついてもらったほうが都合もいい。他のことなどやらずにフルコミットしてもらったほうがいい。井の中の蛙にしたほうが、管理上も都合は良いだろう。税金や雇用保険や福利厚生などまでいろいろな制約がある。よって、雇用者・管理者側と現状の制度から見たら、確かに「副業禁止」は合理的ではある。
現状の解説は機能面のものが大半である。
感情的な側面
感情的な側面はどうだろうか?こちらは機能的な側面とは違う面が出てくる。そしてこちらがこの記事のメインテーマである。現状の制度よりも、こちらのほうが根が深く、深刻な問題なように思われる。
承認欲求・自己正当化・プライド
なぜ副業兼業が広まらないかと言えば、おそらく一言で言えば、日本人の承認欲求やプライド、自己正当化による部分が多いのではないだろうか。
このTweetと同じような状況だと思われる。
東大が怖いのは自分の各能力全てにおいて上位互換がいることって言われるけど、それどころじゃなくて、自分の全能力について完全上位互換がいるんだよな。
あれ?わい、いらんくね?ってなる。
— Mu (@mmtcc0731) May 3, 2020
同僚の視点
ひとつの会社内の仕事と出世レースでも似たようなことが言える。
ある企業で、以下のような3人の同僚がいる状態を考えたい。
Aさん 会社一筋で非常に働き残業も積極的に行い成果も上がっている。
Bさん 定時で必ず帰り、残業は絶対にせずに、副業で起業も行っている。しかし成果はAさんよりも、よく上がっている。
Cさん 会社でもほどほどに働き、ほどほどの成果を上げている。
さてここで、出世レースに勝つのは誰だろうか?Cさんはいいとして、頑張っているAさん?いや成果主義の場合、Bさんが昇進する可能性が高い。
Aさんがこの状態を受け入れられればいいが、なかなかそうもいかないだろう。全身全霊本気でやっているAさんは、片手間でやって余力の残っているBさんに完敗。Aさんはメンツが丸つぶれ状態で、士気が下がったり、転職したり等がおきそうである。BさんがAさんの上司なんかになってしまったら、もう目も当てられない。よってAさんほどではないかもしれないが、副業を認めると、自分が否定されると感じる人が増える可能性が上がる。
現状の副業が盛んでない状態でも、出世による同僚同士の嫉妬は問題になっているようである。これ以上のことが起きれば、耐えられない人も増えそうである。
副業で参入される側の視点
上記までは、本業のほかに、副業をする側の視点であった。一方で、副業として参入される側の視点はどうであろうか?参入される側にも、いろいろあるだろう。これも感覚的には上記と同様である。まだ時間労働者やアルバイトとしてかじるようにやるのであればいいが、そうではなく副業で同業他社を起業して参入してきたらどうなるだろうか?
さらに日本人の思考として「この道一筋・数十年」のようなタイプが好かれる傾向にあるように感じる。確か褒賞もあったはずである。
一筋でやっても大半の人には、それでも大変である。そんな状況では多くの人々は、
『この私が、こんなに真剣に全てを投げ打ってやっても、なかなかうまく行かないんだから、そんな片手間で副業なんかやってるやつがうまくいくわけがない!』
と、心のどこかで思いたいというのは、ないだろか?「自分も苦しんだんだから、お前も苦しめ!抜け駆けは許さん!」と、シンソツ3年は下積みをするべき、と言い出すシャカイジンケイケンと同じような状態になる。
そして副業で参入してきた起業がうまくいかないと、本業で起業している側からすれば
「よかった。自分がやってきたことは間違いではなかった!」
と感じるのではないだろうか?しかし一方で、副業でやっている人が、本業でやっている人よりも成果が上がってしまうと、先述のTweetのように
「・・・俺っていったい何なんだろう。。。」
と感じるのかもしれない。場合によってはどうやっても認めないかもしれない。必死に保身・自己正当化をする方向に無意識にも行動が補正されていくのも、自然ではある。
要するに多くの人は自分はどちらかと言えば主役になりたい。三国無双の下等兵、ドラクエのスライム・キングダムハーツのシャドウ辺りのゲームの一撃で倒される雑魚キャラみたいになるのは嫌。例えばこの動画の1000切りの一撃でやられるうちの1人のような位置づけ。
確かに三国無双の雑魚キャラになって強い武将に倒され続ける下等兵Aが主人公で、その後強くなっていくのではなくひたすらボコされるだけのゲームなんて、発売されてもネタ要素以外では全く売れなさそうである。
こういった安心感と自己正当化のために、自分の一部が半ば否定されたり脅かされるように感じる行動の芽は、無意識的にも潰したい方向に進む可能性が高いのではないだろうか。
スポーツ・アート・作家
仕事における本業・副業だけでなく、スポーツやアートなどでも同様である。日本において、パラレルキャリア・デュアルキャリアの妨げになっているのも、この精神が深いのではないだろうか。
「私は一部の物心つくころから全てを捧げて取り組んでいる。それでも壁は厚かった。(こんなにも優秀な私が)全力で頑張っても世界は大変であった。」
そう思っていたところに、このスポーツを始めて1年で世界大会で結果を出すやつが出始めた。しかもそいつは普段は仕事で全く別の他のことをやっているらしい。こうなるとどう思うだろうか?こう思ってもしょうがないだろう。
「あいつに成功されると、全てを捧げてきた自分の人生を否定されることになる。絶対にうまくいってほしくない!」
要はあれと同じである。文武両道校を敵視するスポーツ校の学生。
「ブラック部活なんて思っていない。甲子園に出場すると監督や選手の達成感はものすごい。ブラックがホワイトになって学校も監督もクセになる。次を狙う。いい選手を集める。もっとハードな練習をして武をきわめる。だから、文武両道の公立が出てくると、自分たちが否定されているようで、敵愾心を抱いてしまうのです」野球強豪校はなぜ“文武両道”を敵視するのか —— ブラック部活と高校野球を考える
この状況では、パラレルキャリアなんて言っている場合ではなさそうである。
ただ、副業も芸術も、身の安定が成功率を上げるという研究結果まであるようなので、感情的には受け入れられなくても事実は違うかもしれない。
例えば、起業においては、会社をやめるなどして退路を断つよりも、実は本業を継続しながら副業的に始めたほうが成功の確率が高いことが調査によって明らかになっている。本書ではそうした誤った常識に流されず、「普通の人」が独自のアイデアを思い付き、周りを巻き込んでそれを実現するまでの正しい道のりが描かれている。『ORIGINALS―誰もが「人と違うこと」ができる時代』(アダム・グラント/著)
副業と彼氏の例え
ある記事に「副業を禁止している企業は、嫉妬深い彼氏と一緒」という表現があった。
副業を禁止している人は嫉妬深い彼氏と一緒
副業って、制度というより、ソフトが先にやり始めちゃうものだと思っていて。よく「副業を禁止している人は嫉妬深い彼氏と一緒だ」という話があるんですけど(笑)。「ほかの男と会うな」「俺一筋でいろ」ということをやってると、嫌になっていなくなっちゃうじゃないですか(笑)。副業が自然なかたちになったら、管理しようとしてもムリだなという時代にはなってきてるのかなと思います。
この表現を借りると、仕事を辞めて全てを捧げて起業を行ってきた人たちや、全てを捧げてスポーツで世界を目指してきた人たちからすれば、本業で全人生を捧げても成功しない人が多い中で、他に本業を持つ人たちによる副業やデュアルキャリアで自分たちよりも成功される例が出てくると「マーケット」や「スポーツ」から次のように言われて、振られるのと同じような状態になる。
マーケット「あたし、のび太さんの一途な本気よりも、出木杉さんの二番目の方がいいから、ごめんなさい」
スポーツ「あたし、のび太さんが人生をかけて全力で頑張ってくれるよりも、出木杉さんの片手間の方がいいから、ごめんなさい」
これを言われて振られるのは辛い。青くて丸いものに泣きついても、泣きつききれない気持ちになる人は多いはずである。ついでに副業と同様に一夫多妻制が自然な形になったら、こんなことも起きえそうではある。働き方改革の副業と一夫多妻制の構造の類似性
日本人の(能力的に大体)平等という意識
おそらく、日本人には「一億中流社会」や「横並び意識」にあるように、人間は能力的にある程度平等であるという意識が、無意識レベルで前提として存在しているようである。この前提としている意識が覆るようなことは、否定したがる傾向にあるのだろう。
しかし、感情を入れずに論理的に考えると、この平等意識は事実に反する可能性が高い。むしろ逆なのではないか?とすら感じる。要するに、人間の能力は平等ではないし、振るパラメータの合計は各個人で同じなわけではない。
あまり実力がない人の本気のフルコミットよりも、才能がある人の適当な片手間のほうが有効である。運動音痴の全力ダッシュよりも、寝起きでウォーミングアップ前のウサイン・ボルトのスキップのほうが速いのは明らかである。
「働き方改革」よりも付加価値化・効率化には「頑張り方改革」が重要という話
小・中学校からの依然とした流れ
日本の初等教育では「みんな平等」が大好きである。運動会でリレーの選手をやった人は、音楽祭の指揮や伴奏は他の人に譲らないといけない。「平等」だから。
日本の平等観は小学校での平等の扱いに見られる。小学校の時を思い出してほしい。話の簡単のため、ほかの人たちよりも多才な出木杉A君と多才な出木杉B子ちゃんの2人がいるA-Tまでの20人のクラスを想定する。10教科の上位2位までが表彰される状況を考えたい。しかしこのクラスでは、「みんなの平等」を重視し「入賞は1人1つまで」と決めている。この結果、クラスの表彰結果は以下のようになる。
10科目で2位以内に入賞する学生は20人。全員何かしらで表彰されることになる。運動会と音楽祭は、リレーの選手や指揮や伴奏などの重要な役は1人1つでみんなで分け合おう!「みんな頑張って、みんな輝こう!」「誰にでも得意な分野がある!」という状況とも通ずる。上記の制限のため、どんなに優秀な出木杉A君と出木杉B子ちゃんでも、それぞれ一つだけ表彰にとどまる。それでもバレンタインのチョコは一部の男に集中していたはずだ。
一方で、このクラスで「入賞は1人1つまで」の制限が外れたとする。その場合には実際の能力を考えるとこうなるだろう。
出木杉A君と出木杉B子ちゃんが1,2位を独占。(音楽はBさんの方が出来たのでBさんが1位。本筋には関係ない)結果2位以内に入り表彰される人はA,Bの2人だけになる。残りの18人は何も表彰されない。これは「誰にでも得意な分野がある!」「誰だって頑張れば報われる!」という状況を真っ向から否定する状況である。
要するに、実力に公平なのではなく「成果」を平等に分配したいのだろう。共産主義の考えに近い。この考えが副業にも無意識に応用されていそうである。
諺の真理
歴史上代々伝わってきた諺や格言には真理が多いといわれる。確かにそのとおりである。「敵を知り己を知らば百選危うからず」で知られる孫子の兵法などは未だに使えるものが多い。
一方で「時代を超えて人々が信じたいもの」も同時に伝わっているのではないだろうか?人々の溜飲を下げるのが目的に見える格言も中にはあるのではないだろうか?
そのうちのひとつと私が考えているものが「二兎追うものは一兎も得ず」である。もちろん意味は、一つのことに集中していないとすべて何も得られないという意味になる。
要するに標準的な日本人は歴史的にも、自分が何も獲得できない人が多数派の中、いくつも獲得している人を見るとむかついてしまう。でもそこで2つを得ようとして両方得られない人を見ると「そらみろ!欲張るからだ!」と言いたくなることが印象に残る。よってこの諺が流行ってきたのだろう。まあもちろん一石二鳥と矛盾しているので、状況によって異なる部分もある。
さて上記までの説明でわかることは、実際の真理は「二兎追うものは一兎も得ず」ではなく「二兎追うものは三兎目を得る」ではないだろうか。二つのものを目指していたら両方得るだけでなく、その光景を見ていた三兎目が、なんかついてきてしまい、自分からそんなに求めている感じですらなかったのに、三兎目をゲットする状況である。一方で、何のリスクヘッジもせずに一兎だけを一途に追い求めていたら、そいつには逃げられてしまって手元には何も残らなかった、そんな状況である。
しかしそんな事実は受け入れたくない。「好きなことだけをやっていればいい」というキャッチコピーが多くの人に刺さるのと同じ状態ではないだろうか。
終わりに
「なぜ日本では副業や兼業・デュアルキャリアが広まりにくいのか?」という問いに対しては、制度もあるが、それ以上に日本人の思考がそれを許さない方向に力が働くため、と考えられる。この辺りが変わっていくのは、もう何十年と先のことなのではないだろうか。
ということで、日本人の文化・メンタリティ的には、副業やデュアルキャリアなど、複数の領域で活動すること自体が広まりにくい前提が広がっているように感じる。このような文化が変わっていくのは、相当に時間がかかるため、制度だけではどうにもならないのではないか、と感じる今日この頃である。