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目次
公開日:2020年3月31日
更新日:2020年3月31日
新型コロナウィルスが世界的に大流行し、スポーツ大会は相次ぐ中止。遂に2020年に開催予定であったオリンピック・パラリンピックまで丸一年後延期になった。延期にするのか?決行するのか?その場合の経済への影響は?支持率はどうなる?という話に真っ先に目が言った議論が進んだ。同時に「選手はどうなるんだ!」という特集が目立つ。選手の気持ちにフォーカスするインタビューも出てきた。
一般的にはスポーツ大会は、一部の選手がメディアに取り上げられるだけにとどまるので、関係性が知られていない可能性が高い。しかし実際には、運営の立場や、選手の立場、メディアの立場、一般観客では、スポーツ大会の見え方が大きく変わる。
この記事では、物理学やコンサルでの仕組みや構造に注目する視点と、スポーツ関係団体の運営の視点、オリンピック正式種目ではないものの日本代表の経験もある現役のアスリートの視点を踏まえ、構造的と個人的な経験を踏まえ、広告宣伝や、感情に流されることなく「心のスイッチを切って」考えていきたい。
〇〇ファースト?
さて、新型コロナウイルスの情報がメディアを席巻し、JOC,IOC,WHOのやり取りや、コメントが出始めた前後から、ある表現を全く聞かなくなった。その表現とは「アスリートファースト」である。「大会は人生掛けて頑張ってきたアスリートたちのものだ!アスリートを最優先に!」という例の表現である。
以下では詳しくスポーツ大会の仕組みと構造を見ていくが、実際に最も尊重されているのは、アスリートではなく、権力者である。そもそも「権力」はそういった他者に対する影響力を行使する力を意味を指し、世の中・特に国際的なものは権力者・ファーストがグローバル・スタンダードである。いくら素晴らしい感動的なキャッチコピーや位置づけをして宣伝をしようと、基本となるこの構造は強固である。
これもオリンピック・パラリンピックの延期が決まったころからは「アスリート第一!」と思い出したかのように、また言いだすようになってきた。
要するに、決定までには美辞麗句を並べている余裕もなくなったということだろう。また2021年の夏までに雲行きが怪しくなると、この表現自体がまず影響を受ける可能性が高い。逆に言えば、この表現の使われ方次第で状況が想定内か想定外かのバロメーターにすらなりそうである。
国際的なスポーツ大会における国際連盟・日本協会・選手の関係と構造
一般的に、各国の代表が出場する国際的なスポーツ大会では、国際連盟が主催する大会に、加盟している各国の協会・連盟が代表選手を派遣する形で行われる。国際連盟・日本協会・アスリートの関係は、一般社会で言ってみれば、グローバル企業本社・ローカル日本支社・ローカル日本支社の短期間スポット採用の非正規雇用のアルバイト、位の関係になる。
大会ごとに代表選手を選考し、その都度選手を派遣をするために、そのような関係と言っても過言ではない。アスリートはその都度競争で代表者を決定することもあり、必然的に弱い立場に置かれがちになる。このため、選手どころか日本協会もあまり過激なことは言えない。下手をするとグローバル企業の日本撤退のように、日本協会が国際連盟から除名になり日本代表は国際大会に出られなくなる等もあり得ないとは言えない。
スポーツにおける国際連盟と日本協会(各国協会)の関係とグローバル本社ローカル支社の関係の類似性
スポーツ大会の構造と起源・古代ローマ
スポーツ大会の構造は昔から変わっていない。多くの人々が、大きな競技場に集まり、フィールドでアスリートが試合をする姿を見て楽しむ、というのが現代の大規模なスポーツ大会の基本的なフォーマットである。主に協会や企業が興行収益を目的に開催する。
この構造は古代ローマのコロッセオでの、多くの人々が、巨大な競技場に集まり剣闘士がお互い殺しあう光景を観戦するイベントとほとんど同じ構造をしている。
オリンピックに限っては、ギリシアの自由民成人男性が、女性や子供の観戦が不可能な中、全裸で行う古代オリンピックがあったが、昨今の大規模に興業化された状態では「市民を楽しませて政治家やスポンサーが人気票の獲得などの利益を得る」という側面が強いという点では、女性や子供はもちろんのこと、社会的地位が高い人も招待して開催していた古代ローマの闘技場の方が現状に近いのではないだろうか。
さらに古代ローマでは、観客を楽しませるような仕掛けが盛り込まれていたようである。同じくらいの強さの剣闘士戦わせる、現代のリーグ制に近いものもしかれていたようだ。決戦前夜の剣闘士たちの最後の晩餐を鑑賞イベントや、戦死しなくても、観客が失望するようなこっぴどい負け方をすると、敗者が処刑される「観客参加型の仕組み」すらもあったようである。これは選手である剣闘士からしたらたまったものではない。
同時に殺し合いをさせられている奴隷の身分であっても、イケメンなど人気の剣闘士はモテて、おひねりで莫大な富を得たものもいたようである。この部分も現代のアスリートと共通している。引退後の剣闘士は、奴隷の身分から解放されたり、後輩の育成を行ったりしていたようである。この辺りも、引退後に監督になったり、コメンテーターになるアスリートがいることとも対応する。
現代のアスリートと古代ローマの奴隷・剣闘士の類似性 -歴史的な背景から-
決定的な違い
古代ローマと現代のスポーツ大会の決定的な違いは、フィールドで戦う剣闘士やアスリートの人々の位置づけである。古代ローマの剣闘士は、多くが戦争捕虜や奴隷であったようである。要するに自ら望んでいるわけではなく、強制的に殺し合いに参加させられていた。中には一部剣闘士の戦いに憧れるローマ市民も参加していたようであるが、大半は戦争捕虜または奴隷であったようだ。そうでないと殺し合いや最後になるかもしれない晩餐の見学など、逃げられるなら逃げ出していそうである。
一方現代のアスリートは、自らその道を選んでいる。大会の構造的な仕組みが古代ローマと変わっていないこの状態では、現代アスリートはいわば、自ら志願して奴隷状態になっているといっても過言ではないだろう。言ってみれば「アスリートは志願奴隷」の側面を持っている。物心ついたころから練習に明け暮れていた選手は、このような構造になっている事すら知らないで目指している可能性も高い。実際に私も運営に携わるようになってから知ることとなった。
メディア
上記の構造はスポーツ大会そのものの話である。メディアは、また別の立場に置かれている。基本的にメディアの最大の関心は視聴率と広告費である。
メディアで扱うコンテンツは、視聴者の飽きが来ないように、次から次へと新しいコンテンツを絶えず供給する「使い捨て」状態になりがちである。対象は、事件であろうが、イベントであろうが、人間であろうが関係はない。これにはたまにしか開催されないスポーツ大会は格好のネタになる。
またアスリートは、大会ごとに大半が入れ替わり、2回以上出場するのは非常に少ない。同じようなプロットで話が進み放送されるが、少しずつ設定が違う仮面ライダーやスーパー戦隊レンジャーが、毎年入れ替わっているのに酷似している。
一部アスリートに集中する高年俸も、メディアを関係とする広告が密接に関係している。同時に大会の運営側も、興行的に特化した場合、収入の大きな部分を占める広告費を得たいために、メディアのお気に召すような大会運営になりがちである。
そもそも、オリンピック憲章には、「国別のメダル数を数えてランキングにしてはいけない」と明記されている。しかし視聴者が求めるのはスポーツを使った代理戦争であり、コンプレックスが多い外国に立ち向かって勝つ日本人の姿なのであろう。逆にメディアがメダルの数や、どこの国の代表かを全く報道しない大会の中継は想像すらつかない。
逆説的に、アスリートとしても、仮にスポーツ大会がメディアが全く来ない、広告費が入らずに賞金も全くない、運営費は参加者で割り勘、純粋にスポーツが好きな人たちの大会、という状態であったら、そこまで人生掛けて取り組む人も居ない可能性もある。
スポーツの語源デポルターレは「暇つぶし・遊び」
スポーツの語源は暇つぶし・遊びを意味するラテン語、「デポルターレ」であると言われている。要はスポーツは遊びである。必死に競争している状態は、真剣に遊んでいる状況になる。遊びや暇つぶしを行うには、平和な状態が大前提である。平和の定義が難しいが「時間的・経済的・精神的余裕がある状態」といったところではないだろうか。ひとつでも欠けると楽しむことは出来ない。非常事態には遊んでいる場合ではなくなる。
権力者・ファーストがグローバル・スタンダードな世の中で、様々な事象が利権争いの下に置かれているのは言うまでもない。スポーツ大会もそれらで支えられている。しかしそれ以上に、その争いですらも健康第一・安全第一である。生きるか死ぬかがかかっている時に「スポーツで誰が強いか?」なんて、大半の人にとってどうでもいいことになる。
アスリートの気持ち?
最後に本記事のメインテーマでもある「アスリートの気持ち」である。繰り返しになるが、気持ちは痛いほどわかる。大会の日程が変わると、それまでの予定が崩れ、調整が大変になる。さらに今回の「オリンピック・パラリンピック1年程度の延期」は、1年後に開催されるかもよく分からない。再延期や延期の末中止の可能性すらある。この中でモチベーションを高く保つのは強靭なメンタルが必要になる。
特に物心ついたころから目標としていた念願かなった夢の舞台オリンピックが、新型のウイルスのような不可抗力でなくなるのは精神的にも厳しいものがある。下手したらそのまま舞台にすら立てず引退。やりきれないだろう。
しかし、大会の運営の立場からすると、誰が、どこの国の代表として出場しようが、あまり関係が無く、もはや興味を持たなくても問題がない仕組みになっている。競技自体よりも特定の選手の方が有名など、よっぽどのことが無い限り、各国から選手が規定人数が出されれば、事足りる。
部活などで大会のフォーマットを見たことがないだろうか?「第7試合勝者 vs 第8試合勝者 オフィシャル:第5試合敗者」のように、既に決まった大会フォーマットの枠の中に選手やチームを当てはめている状況である。これは世界大会でも同様である。
先述の運営と選手の関係を考えると、グローバル企業本社の役員に、ローカル支社の非正規雇用のアルバイトが「こんな決定おかしい!私たちの気持ちも考えて!」と訴えたとしても「なんか文句ある?あるならやめたら?ていうか誰?」という対応になるのは想像に難くない。ローマ時代の剣闘士も同様で、奴隷には気持ちを考慮した運営はされなかったことは想像に難くない。代わりはいくらでもいる状況になりがちである。仕組み上、非常事態なら真っ先に切られる。
それくらいに「アスリートの気持ち」なんて、判断の考慮に影響を及ぼしにくい構造をしている。大会の場合の中止や延期の場合のBプランは前途多難であるが、選手の場合のBプランは非常に単純である。「日本代表に内定した田中選手(仮名)がオリンピックに出られなくなった。どうする?」「じゃあ代わりに次の順位だった山田選手(仮名)の繰り上げ内定でよくない?」「はい、解決。」いかにアスリートは替えが利くかが分かりやすい。
スポーツ大会の構造として、アスリートはスポットライトが最も当たると同時に、最も替えが利く存在であることもわかる。
なおチームスポーツの個人選手にスポンサーがついていたことから、代表メンバーの選考に際して問題になったと考えられているのが「忖度ジャパン」の件だろう。
そしてパンデミックの状態であれば、そもそも「遊ぶ」余裕がない状態になり、スポーツ大会の行方自体がどうでもよくなる。そんな状態の時にアスリートたちの「僕たちの気持ち!」とか言われても、一般の人々は「いや・・・あのー、それどころではないんだけども・・・。」と呆れられてしまうのではないだろうか。
終わりに
メディアも国際連盟も企業もコーチも、それぞれ個人的な感情では、アスリートを「使い捨て」にしたいわけではないのかもしれない。しかしながら現状の仕組み・構造として、そうしておくのが最適解のようになっている。坂道にボールをおけば自然と坂を下っていくように、どんなに願っても、坂を上がって行くように願いを込めて上向きに矢印を書いたとしても、坂道に置いたボールが自然と坂を登っていくことはない。いかに表現や広告で見せ方・印象をよくしようとも、物理的な仕組みや構造に逆らうのは非常に難しい。さらに非常事態ならそもそもスポーツ大会の結果なんてどうでもよくなる。
しかしそれでもなお「心のスイッチを切って」感情的にならず冷静に考えると、上記のような構造の仕組みがスポーツ大会に存在していることや、アスリートは「ファースト」どころか、短期スポット採用の非正規アルバイトや、志願奴隷のような非常に弱い立場に置かれている点、そもそも非常事態にはスポーツどころではない点は、留意しておいた方が良いだろう。