「もっと勉強しておけばよかった」は不可避感情?【学生/大学/大人/名言】


「昔もっと勉強しておけばよかった。」というのは聞き飽きるくらいよく聞くセリフです。これって、もし昔頑張って勉強していたら避けられる感情やセリフなのでしょうか?私が思うには、これは、ごく一部を除く誰しもが、少なくとも一度は感じる感情なのではないでしょうか。今回はこれについて考えて見ましょう。

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どういうときにそう感じるか?

さて、こういう問いを考えるときには、そもそもどういうときに「もっと勉強しておけばよかった」と感じるのかを検証する必要があります。一般的に言って、このような状況ではないでしょうか。

  • その概念や内容に触れたとき、当時は気にも留めなかったことが、現在必要になったことが明らかになったとき。
  • 自分の努力次第で身につけることが出来たとき。

いろんな解釈や状況がありそうですが、概してこのような感じではないでしょうか?重要なのは

  • 努力で克服可能
  • 以前に機会があったものの軽視や先送りにして結局取り組まなかった。(十分ではなかった。)
  • 何かしらの選択があり、現在必要としているものとは違うものを選択した
  • 今はもうできなくなってしまっている

といったところではないでしょうか?もちろん勉強以外の練習等でも同様です。

仮に昔勉強していたら、感じることはないか?

さて、どういうときにそう感じるかということがわかったところで、次の段階に向かいましょう。これは「やっておけばよかった」というの感じるのは合理的で、避けられない感情なのでしょうか?しょうがない可能性はないのでしょうか?ちょっと考えてみましょう。

「やってけばよかった」というものの、よく考えると、事実上不可能だった

そもそも今必要だと考えている勉強しなければならないものを、数年前は、その存在や概念すらも分からない状態であった可能性ですらある。さて、「むかし、勉強しておけばよかった」と思う、その対象のものは、その時代には存在していたものでしょうか?

例えば、私は、現在、このブログを運営したりしているのにあたり、「プログラミングをもっと小さいときからやっておけばよかった」と思ったことがあります。

確かに現在やりながら基本的なことは見ながら取り組めています。大学で一応情報処理の授業やTAをやった経験なども生きてはいますが、それでももっと小さいときから本格的にやっておけばよかったな、と思ったことは何度もあります。

しかし、昔、例えば中学校の頃、そもそも一人1台パソコンを持っている・スマートフォンを持っている時代でしたか?一部の例外を除き、15年以上前、スマートフォンはなかったし、パソコンですら素人が詳細にいじれる環境は少なかったと思います。よって、時代の流れを考えると、そもそも、プログラミングなんていう概念がそこまで一般的ではなかった、というのも考えられます。さらにさかのぼると、Windowsが出る前には、ほぼパソコン(Personal Computer)という言葉すら身近になかったのではないでしょうか?

よって、事実上客観的に考えて、不可能、という場合もありそうです。

「やっておけばよかった」と考えるに至る1ステップ前の出来事が実は最近だった

一般的に人間が、どんなに先見性があっても、未来を正確に予想することは不可能であるため、完全に逆算していったとしても、「物心がつく前」などに行き着く可能性すらあります。

「やっておけばよかった・・・。」と思うに至るステップの、ひとつ前のステップが実は最近であったために、現状では「むかしもっと、これについて勉強しておけばよかった」と思う場合もあるでしょう。

「次」を予想するのは既に難しいことで、先見の明があるといわれている人でも、これは困難でしょう。さらにその次を予想するのはほぼ不可能と言っても過言ではないのではないでしょうか?

例えば、私は最近になって様々な国の人と机を並べたり、同じコートに立ったりして、様々なことに取り組んでいます。そんなときに「英語だけじゃなくて、第二外国語、第三外国語等はもっとやっておけばよかった。」とよく思います。

ドイツの大学に行っていたときには、ドイツ語で日常会話を行えるように必死で頑張りました。確かにその経験もある程度は生きており、今でも、ちょっとしたことでドイツ語で話したりは少しなら出来ますが(自然科学系では、ヨーロッパだとドイツ語圏の人が結構多い)、それでも、もっとぺらぺらになるようにやっておけばよかった、と思ってしまいました。

現に日本の大学教育では、第二外国語は、学部1,2年生の教養課程で取り組むものでしょう。当時私はフランス語選択でしたが、全く持ってやる気がおきませんでした。しかし現在周りにはフランス語圏の人もいっぱいいます。ハウスメイトやグループにフランス人もいます。本当にもっと必死にやればよかった、と思いました。

しかしこれを冷静に考えてみると、第二、第三、第四外国語などの英語以外の言語に目が向き始めたのは、私がある程度英語が出来るようになってきて、今ではイギリスでネイティブ並みではないものの、不自由はない位に使えるようになっているからであることが非常に大きいです。

当時最初に第二外国語に取り組んだときは、十分英語が出来たわけでもなく、近い将来、グループに日本人以外が多数いる国際的な環境に身をおくだなんて思ってもいませんでした。そんな中では第二外国語なんてやる気が出ないのも、しょうがないのではないでしょうか?いわゆる外国語という観点で、一般的に諸外国後の前に英語というステップを踏まえていないと、諸外国語をやる気になれないのは、言ってみれば当然かもしれません。

ほかの見方をすると、このようにも言えそうです。私は経験上、諸外国語は相当に役立つスキルだと感じています。しかし「第二外国語なんて役に立たない」と言っている人は、日本や世界でもあふれています。その際、「第二外国語なんて役に立たない」と言っている人々は、往々にして第一外国語の英語ですらも、満足に意思疎通できるレベルにない人が大半なのではないでしょうか。そして日本国外での生活に実感がわかないのではないでしょうか。

そういう人から見れば、「第二外国語なんて役に立たない」という思考回路は論理的である、というようにも見ることができそうです。ということで、客観的に考えると、「しょうがない」部分もあります。

未来での予想外の変化には今までの延長では対応できない

おそらく人間は、今までの事実に基づいて未来を予想する傾向があるでしょう。いわゆる論理的な思考というやつの延長かと思います。今までの流れから考えて、今後を予想するのではないでしょうか?

例えば物理の力学のようにボールが床を同じ速度で転がっている状況を考えます。これは「等速直線運動」という状況です。速さが一定のボールが転がっています。この状態ではあと10秒後にはボールがどの辺にくるのかが予想できます。ちょっとクイズをやってみましょう。このグラフは直近までのボールの動きを縦軸に距離、横軸に時間を表しでいます。現在から10秒後はA,B,Cのどこにたどりつくでしょうか?

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ちょっと考えてみてください。スクロールします。

おそらく通常、現在までの太線を暗に延長して予想の直線を作り、10秒後はBに到達するという予想を立てるかと思います。(数式を用いても事実上一緒)

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では、実際どうなったのでしょうか?その図はこちら。

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その後6秒くらい同じようにボールが転がっていったが、7秒後くらいに突然子供がやってきてボールを逆方向に蹴飛ばしていってしまった。そのボールが到達したのは、最初よりもマイナス地点にたどりつきました。よって、ボールの到達点はこちらです。答え:A,B,Cのどれでもない

…突然子供が入ってくるなんて聞いていない?そんなんじゃ今までの情報を頼りにするだけではどう頑張っても分かるわけがない?

そうです。わかるわけがないんです。これは少々極端な例ですが、現実にはこういう、聞いてない、誰も予想だにしないようなことも起きうるのではないでしょうか?

尚これだと物理の問題として成り立っていない、といわれると正にそうなのですが、ここでは前提条件からは予想できないことが起きた場合には、その後を予想するのはさらに不可能である、ということが言いたいだけなのでご容赦ください。

このように昔は必要ないと思っていたことでも、知らぬ間に変化が起きて、今必要になったのであれば、今から対応すればよいのではないでしょうか?「もっとやっておけばよかった。」と思った日が吉日の可能性もあります。

いろいろな理由により、今からでは絶対にできない場合

勉強に関しては、いつからでも始められそうです。しかし、ほかのことでは、もっとやっておけばよかった、と考えるのに、今からでは絶対にできないものの場合は、かなり難しい窮地に陥りそうです。そのたぐいの後悔はなるべくしたくないですが、もしそう思った場合にはこう考えるのはいかがでしょう。

「A(やりたったと、後悔していること)はできないけど、B(最近新しくできるようになってきたこと)ならできるから、Bに集中しよう。」

…少しは気が楽になりませんか?

それでもやっておけば、と思う場合

さて、振り返って考えたとき、やっておけばよかった、と思うものを仮に想定する時期にやっていたとして、代わりに、全く別のことをやっていませんでしたか?仮にやっていた別のことを取り除くと、今のあなたの何かの部分が足りなくなっている可能性はありませんか?

逆説的に、おそらく根詰めてやっていた場合には「もっと遊んでおけばよかった」と思うかもしれませんよ?

いくらやったとしても、常に発展を続けると、不十分な箇所が必ず出てきます。その時いずれ必ず一回は「もっとやっておけばよかった」と思うことが来てしまうのは、自然なことではないでしょうか?

継続は力なりというように、何事にも継続すると向上することが予想されます。何事も壁にはぶち当たるでしょう。これを壁にぶち当たらないように最適化しようとすると、もっと若い時から始めればよかった。と考えることになるでしょう。これも突き詰めると物心つく前、生まれた瞬間、ということになりそうですが、そんな状況では自分で思考することすらできない状況です。よってそれは不可能であることが分かります。

このことからも、何かに、特に真剣に取り組むと「もっと前からやっておけばよかった」と考えることに何も過失もなくなることになります。

そもそも「やっておけばよかった」というのは悪い感情ではない

やっておけばよかった、と感じるということは、昔は必要がないと思っていたことが、今のあなたに何が必要なのかが分かった、ということではないでしょうか?「目標なくして計画なし」と言いますので、今からでも始めればよっぽどのもの以外は今からでも挽回能ではないでしょうか?

逆にやっておけばよかった、と思わないほどに、何にも取り組んでいないというのは、場合によっては危険かもしれません。

いや、むしろ、備えすぎて何も出来なくなるかも?

「備えあれば憂い無し」とは言いますが、「やっておけばよかった」と感じるのを避けるために、何でもかんでも備え、かえって備えすぎるというのも問題になりそうです。保険のかけすぎみたいなものでしょうか?

その場合、もしかしたら必要かも?と考えていろいろ詰め込んだ結果、荷物が重すぎて空港で追加料金を取られるほどにスーツケースが重くなってしまった。追加料金を払って持っていったものの、結局何も使わなかった、ような状況と似たようなものではないでしょうか?

極端な例では、海外赴任するかどうかすら分からないような状況で、将来タンザニアに赴任するかも?と思って、いざというときのためにスワヒリ語を必死に勉強しておく、ような感じでしょうか?確かに本当にスワヒリ語圏に行けば直接役に立ちますが、確率的に考えて、その確率は低そうです。同様にそんな感じで何十ヶ国語も勉強するような感じになりそうではありませんか?

こんなんじゃ、目の前のことが全く出来なくなってしまいますね。

何事にも例外は存在

さて、毎度毎度多少屁理屈とオカルトにまみれていると評判の例外です。冒頭で「ごく一部」と書きましたが、その例外を考えましょう。

思考回路自体の問題

まず、そもそも「反省」や「自省」を行うという思考回路を持ち合わせていない場合には、浮かばない感情かもしれません。

そもそも感情がない

昨今の人工知能のAIのように感情がそもそも存在しなければ、もっと勉強しておけばよかったという後悔はないでしょう。…そもそも人間じゃなくてロボットじゃん、っていう。

タイプスリップできる人

またもし、タイムスリップなどの、時空を移動することが出来る等の特技をお持ちの方には出来ることなのかもしれません。少なくとも私には出来ません。時空を移動することが出来る人が全くいないということを証明するのは難しそうです。

終わりに

よって、上記のような客観的で論理的な考え方をした結果、実は「もっとやっておけばよかった」と思う必要は無いという結論に至る場合があるとしても、その客観的な考えに至るまでに最低1回は「もっとやっておけばよかった」という感情を持つことになりそうです。

上にも書いてありますが「後悔先に立たず」とは言いますが、同時に「思い立ったが吉日」というのもあります。

今のあなたは、今までやってきた多くの失敗とほんのちょっぴりの成功、今あなたが「こんな無駄なことやらなければよかった」と考えていることなども全てひっくるめて今のあなたは存在するわけですから、「もっと勉強しておけばよかった」と思うのは程ほどにして、「思い立ったが吉日」として、すぐに取り掛かってみるのも、いいかもしれませんね。

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